ウンデット・ニーの虐殺
[Wikipedia|▼Menu]
このとき、銃が誤射され、白人士官を射殺してしまった。ドッグ・チーフはそばで一部始終を見ていたが、「完全な事故だった」と証言[要出典]している。兵士達の多くは、まだ昨夜飲んだウィスキーで酔っていたという。

これをきっかけに、ついに米軍はインディアンに対する無差別虐殺を開始した。無抵抗の病人のビッグ・フットは、間もなく、ティピーに押し入った兵士に頭に弾を撃ち込まれて殺された。ウーンデッド・ニーの谷間。スー族や馬の死体が放置されている

軍は丘の上から速射ホッチキス山砲で無差別砲撃を加えた。さらに新鋭のスプリングフィールド銃 (Springfield rifle) で馬も犬も子供も狙い撃ちし、皆殺しにした。100人弱の戦士たちは、没収された銃を手にするまでは素手で虐殺者たちと戦った。イエロー・バードは銃をとってティピーに立てこもり、白人を狙い撃ちした。ティピーに火が放たれ、全身に銃弾を浴びるまで戦った。

銃・砲弾の降り注ぐ中、インディアンたちはそれでも3キロメートルばかり逃げたが、負傷のためにそこで力尽き、倒れていった。部族員のほとんどが武器を持たず、それを四方から取り囲んだ兵士達が銃撃した。白人は29人が亡くなった。米軍側の負傷者は39人だった。カスターの部下だった士官もいたが、彼は味方の攻撃の巻き添えで亡くなった。それほどまでのすさまじい無差別銃撃だった。虐殺の3週間後。遺体には毛布がかけられている

「ホッチキス山砲は1分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロメートル余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」[要出典]と、兵士の一人は回想している。

また、「これまでの人生で、このときほどスプリングフィールド銃がよく出来ていると思ったことはない」[要出典]と、ある白人士官が言葉を残している。乳飲み子もたくさんいたが、米兵はこれも無差別虐殺した。「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」[要出典]と、埋葬隊の一人は言葉を残している。

この無差別虐殺は、発生直後にその報がシャイアンクリークの野営にも届き、直ちに20騎ばかりのスー族戦士団が虐殺現場へと馬で駆けつけた。米兵は彼らに発砲したが、すぐに退却した。救援の戦士団は、ワゴン砲の砲撃でばらばらになったたくさんの死体を見た。こときれた母親の胸で、乳を吸おうと泣き叫ぶ赤ん坊もいた。亡くなった母親のショールに包まって生きていた赤ん坊が3人いた。救援に駆け付けたスー族戦士のブラック・エルクとレッド・クロウは転がっている赤ん坊をそれぞれ一人ずつ見つけ、ショールでくるんで連れ帰った。この二人の赤ん坊はスー族が引き取ったが、白人に連れ去られた赤ん坊もいた(→ロスト・バード)。峡谷では、男児二人が銃を持ち、米兵と戦い、これを射殺していた。この二人の男児は全く傷を負っていなかった。

増援の戦士団に対し、退却した米兵は壕を掘って応戦した。夕方になって米兵は去り、ブラック・エルクたちはようやく虐殺の全容を把握した。彼はこのとき、「自分も死ねばよかった」と思ったという[要出典]。虐殺された人々に対しては、哀れみや同情よりも、「いっそ白人の支配するつらいこの世に別れ、あの世で幸せに暮らすほうがいいかもしれない」と思ったと語っている[要出典]。彼らは白人に対する復讐を誓った。ブラック・エルクたち救援の戦士団はパインリッジの保留地に戻ったが、一度退却した米軍が追跡してきた。パインリッジのスー族はティピーを置いたまま逃げていた。
虐殺のあと

12月30日の朝、ブラック・エルクたち保留地のスー族はウーンデッド・ニーに向かった。ホワイトクレイ・クリークのそばのキリスト教伝道所の近くですでにスー族同胞による戦闘は始まっており、両岸に待機したスー族は川沿いに下ってくる米兵を攻撃していた。伝道所の白人尼僧たちは、負傷したスー族の手当てを行った。スー族の攻撃は米兵を圧倒して優位に戦いを進めたが、やがて米兵側に「黒いワシチュー(黒人兵)」の一団が戦闘加入し、スー族は退却した。「埋葬」の様子

この大量虐殺でインディアン側の死者は300人近くに上り、豪雪のなか死体は3日間放置された。重傷を負った部族員女性は、治療のために「ゴースト・シャツ」を脱がせてよいかとの白人医師の問いにうなずき、「弾丸が通らないと言われていたのに。もうこんなものはいらない」と答えたとされる[要出典]。インディアンの自由な世界が還って来るとされるゴースト・ダンスは、この大虐殺を機に、一挙に下火になっていった。兵士たちは、亡くなったインディアンたちから衣服や記念品を剥ぎ取った。「ゴースト・シャツ」を制服の下に着込んでみる者もいた。

1891年1月1日、埋葬隊が派遣された。銃座が置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。彼らの遺体は一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによってこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。ウーンデッド・ニーの虐殺の慰霊碑

このビッグ・フット・バンドの死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言が食い違っている。白人側は150人から多くて200人程度だとし、スー族側は約300人、また@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それ以上の数[要追加記述]を挙げる向きもある。どちらにしろ、合衆国政府側は殺したスー族を上記のように扱って、その数を記録しなかったし、未だ十分な検証も行われていない[要出典]。

虐殺を生き残ったブラック・エルクは後年、ウーンデッド・ニーの虐殺についてこう書き残している。この高い丘に立つと昔を思い出す。うねった谷のあちこちに殺された女や子どもが積み重なっていたんだ。あの光景は忘れられない。それに、死んだものはもうひとつある。血に染まった土のなかで息絶え、吹雪に埋もれてしまった。皆の夢が死んだんだ。美しい夢だったよ。[1]
「ゴースト・ダンスの上着」の返還

1999年8月1日、スコットランドグラスゴーにあるケルビングローブ美術館・博物館からスー族に対し、「ゴースト・ダンスの上着」の返還が行われた。この「ゴースト・ダンスの上着」はケルビングローブ美術博物館館長のパトリシア・アレンによれば、「ウーンデッド・ニーの虐殺」で亡くなった戦士から剥ぎ取られ、1891年にバッファロー・ビルの「野生の西部ショー」のグラスゴー巡業の際に、ショーの通訳だったジョージ・クレイガーという人物によってモカシンや他の物品とともに「インディアンの珍奇品」として同博物館に持ち込まれたものである。

1992年9月、英国ツアー中に当博物館を訪れ、これを発見したジョージア州ウッドストックのインディアン弁護士、ジョン・アールによって、この遺品のスー族に対する返還要求が起こされた。同博物館では当時、「コロンブスによるアメリカ“発見”500周年記念展示」として、マクミラン・ギャラリーで「ゴースト・ダンスの上着」が展示されていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef