ウルバヌス6世_(ローマ教皇)
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1389年に死去、ナポリ軍に包囲された時に転倒して重傷を負ったことが死因とされるが、毒殺説もささやかれている[4][6][7]

教会統治で何ら業績を上げることなく死去、次の聖年1390年に定めたことが唯一の業績になっている。次のローマ教皇はボニファティウス9世が選出されたが、教会大分裂は依然として長引き解決の見通しが立たなかった。カルロ3世とルイ1世のそれぞれの息子ラディズラーオ1世ルイ2世・ダンジューもナポリ王位争奪戦を続け、両者は教会大分裂に介入して混乱に拍車をかけていった[4][6][8]
脚注^ a b c 新カトリック大事典編纂委員会、P712。
^ a b バンソン、P127。
^ スチュアート、P178 - P179。
^ a b c バンソン、P128。
^ 鈴本、P99 - P100、スチュアート、P179、瀬原、P184、バラクロウ、P283 - P285。
^ a b 新カトリック大事典編纂委員会、P713。
^ 鈴本、P107 - P108、スチュアート、P179 - P180、瀬原、P215 - P216、バラクロウ、P285。
^ スチュアート、P180 - P183、瀬原、P232、P242。

参考文献

新カトリック大事典 第1巻』学校法人 上智学院 同・編纂委員会編、研究社、1996年。

鈴本達哉『ルクセンブルク家の皇帝たち-その知られざる一面-』近代文芸社、1997年。

P.G.マックスウェル・スチュアート『ローマ教皇歴代誌』月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修、創元社、1999年。

マシュー・バンソン『ローマ教皇事典』長崎恵子・長崎麻子訳、三交社、2000年。

瀬原義生『ドイツ中世後期の歴史像』文理閣、2011年。

ジェフリー・バラクロウ『中世教皇史』藤崎衛訳、八坂書房、2012年、増補版2021年。

関連項目

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ケルン大学

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