この項目では、学者・詩人のウマル・ハイヤームについて説明しています。小惑星のウマル・ハイヤームについては「ウマル・ハイヤーム (小惑星)」を、競走馬については「ウマルハイヤーム (競走馬)」をご覧ください。
ウマル・ハイヤーム
??? ????
ハイヤームを描いた絵画
誕生1048年5月18日
イラン ニーシャープール
死没 (1131-12-04) 1131年12月4日(83歳没)
イラン ニーシャープール
職業学者
詩人
国籍ペルシア
代表作『ルバイヤート』
影響を受けたもの
イブン・スィーナー、フワーリズミー、エウクレイデス、ペルガのアポロニウス
影響を与えたもの
ナスィールッディーン・トゥースィー、ニザーミー・アルーズィー、ジョン・ウォリス、ジョヴァンニ・ジェローラモ・サッケーリ
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
ウマル・ハイヤームの墓にて(ジェイ・ハンブリッジ画)ルバイヤートの詩の刻板
ウマル・ハイヤーム (ペルシア語: ??? ????, Omar Khayyam、アラビア語:??? ??????, ?Umar al-Khayy?m, ウマル・アル=ハイヤーム、1048年5月18日 - 1131年12月4日[1])は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人。ニーシャープール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)出身。イラン・イスラーム文化の代表者。ウマルの名を現代ペルシア語風に読んでオマル・ハイヤームともいう。全名アブー・ハフス・ウマル・イブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー・ニーシャーブーリー。「ハイヤーム」は「天幕造り」の意味であり、ハイヤームの父親の職業が天幕造りであったことから、このように呼ばれている。
数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルターンであるマリク・シャーに招聘され、メルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。
また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行詩)を多数うたい、詩人としても高い評価を得ていた。彼のルバーイイを集めた作品集は『ルバイヤート』として、故地イランのみならず、各国で翻訳され出版されている。 ハイヤームはニーシャープールの職人の一家出身だと考えられている。幼少期をバルフの町で過ごし、その地で学び、また当時にあってもっとも著名な学匠の一人であったシャイフ・ムハンマド・マンスーリーから個人的な指導を受けた。青年時代には、ホラーサーン地域におけるもっとも偉大な師の一人と見なされていたニーシャープールのイマーム・ムワッファクのもとで研究に勤しんだ。 (伝承では)イマーム・ムワッファクの許で、同じ頃、二人の優れた学生がまた研究を始めていたのであり、そのうちの一人は、後にセルジューク朝の二人の君主にワズィール(宰相)として仕えたニザーム・アル=ムルクであり、いま一人は暗殺教団(ニザール派)の指導者となり隠然たる勢力を築いたハサニ・サッバーフであるという。 卓越した指導者のもとで学んだ者は、誰であっても栄誉と幸運を得ると、当時広く信じられていた。ハイヤームを初めとする三人の学生は友人となり、彼らのうちの誰か一人が幸運に与ることができたならば、互いに幸運を等しく分け合うことを誓約した。ニザーム・アル=ムルクがワズィールとなってのち、ハサニ・サッバーフとウマル・ハイヤームはそれぞれニザーム・アル=ムルクを訪ね、幸運の分け前を求めた。 ハサニ・サッバーフは、帝国の高官の地位を求め、ニザームはハサニの希望を叶えた。しかしハサニの野心は大きく、恩人であるはずのワズィールを失脚させようとして失敗した試みに加担した結果、権力を失った。はるか後年になって、ハサニは暗殺教団の長となって権力を握った。 ウマル・ハイヤームは誓約の履行において、遙かに控えめであり、高官の地位を求めることなく、生活し、科学を研究し、祈ることのできる場所を求めた。ウマルは、ニーシャープールの財務庫より1200ミスカルの黄金を年金として毎年受け取る権利を得た。 (以上の、ウマルを含む三人の人物の逸話は有名であるが、あくまで伝承であり、史実としては確認されていない。ウマルとニザームの生年が30年ほど離れており親子以上の年齢差があることからも、この逸話の信憑性は疑わしい。) 西暦1048年頃ペルシアホラーサーン州の都城ニーシャプールの近くで生まれ、1131年(一説には1123年)に生涯を閉じた。
ハイヤームと二人の学友
生涯