ウディ・アレン
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1983年『カメレオンマン栄誉金獅子賞
1995年
ベルリン国際映画祭
銀熊賞(芸術貢献賞)
1975年ウディ・アレンの愛と死
全米映画批評家協会賞
監督賞
1979年『マンハッタン
脚本賞
1977年『アニー・ホール』
ニューヨーク映画批評家協会賞
監督賞
1977年『アニー・ホール』
1979年『マンハッタン』
1986年『ハンナとその姉妹』
脚本賞
1977年『アニー・ホール』
1985年『カイロの紫のバラ』
ロサンゼルス映画批評家協会賞
脚本賞
1977年『アニー・ホール』
1986年『ハンナとその姉妹』
放送映画批評家協会賞
オリジナル脚本賞
2011年『ミッドナイト・イン・パリ』
英国アカデミー賞
作品賞
1979年『マンハッタン』
1985年『カイロの紫のバラ』
監督賞
1977年『アニー・ホール』
1986年『ハンナとその姉妹』
脚本賞
1977年『アニー・ホール』
1979年『マンハッタン』
オリジナル脚本賞
1984年『ブロードウェイのダニー・ローズ
1985年『カイロの紫のバラ』
1986年『ハンナとその姉妹』
1992年『夫たち、妻たち
フェローシップ賞
1996年
グラミー賞
最優秀編集サウンドトラック・アルバム賞(映画・テレビ・その他映像部門)
2012年『ミッドナイト・イン・パリ』
ゴールデングローブ賞
脚本賞
1985年『カイロの紫のバラ』
2011年『ミッドナイト・イン・パリ』
セシル・B・デミル賞
2013年
ゴヤ賞
ヨーロッパ映画賞
2006年『マッチポイント
セザール賞
外国映画賞
1979年『マンハッタン』
1985年『カイロの紫のバラ』
その他の賞
全米監督協会賞
長編映画監督賞
1977年『アニー・ホール』
D・W・グリフィス賞
1995年オー・ヘンリー賞
1978年

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ウディ・アレン(Woody Allen、本名:アラン・スチュアート・コニグズバーグ(Allan Stewart Konigsberg[1])、1935年12月1日[注釈 1] - )は、アメリカ合衆国映画監督俳優脚本家小説家クラリネット奏者である。日本語では「ウッディ・アレン」と表記される場合もある。

アカデミー賞に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞を1度、脚本賞を3度受賞している。
経歴
少年時代

ニューヨークブロンクス区で、ロシア=オーストリア系ユダヤ人の家庭に生まれる[3]。父親のマーティン・コニグズバーグ(Martin Konigsberg, 1900年12月25日 - 2001年1月13日)と母親のネティー(Netty Cherrie Konigsberg, 1908年 - 2002年1月)はアレンが生まれてから妹のレッティ(Letty, 1943年 - )が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた。

ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アレンに対して激しい(時には手も出る)叱責を行った。妹のレッティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになっていった。

コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間ヘブライ語学校に通うことになった[4]。これは彼の宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリックスクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに熱中した。

16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつける。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いやつ」という評判が立ち[5]、アレンは徐々にコメディに傾倒し、その道を志望するようになっていった。アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン好きということで意気投合し、後にアレンの初期の映画で共同で脚本を書いている。
ギャグ・ライター

1952年、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『ニューヨーク・デイリー・ミラー』、『ニューヨーク・ポスト』などにいわゆる「ハガキ職人」としてギャグを送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」(ごく短期間「ヘイウッド・アレン」とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。

これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった[6]
コメディアンとして

1953年、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学スペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートはコメディ風といった調子で、結局中退してしまった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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