ウディ・アレン(Woody Allen、本名:アラン・スチュアート・コニグズバーグ(Allan Stewart Konigsberg[1])、1935年12月1日[注釈 1] - )は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、小説家、クラリネット奏者である。日本語では「ウッディ・アレン」と表記される場合もある。
アカデミー賞に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞を1度、脚本賞を3度受賞している。 ニューヨークのブロンクス区で、ロシア=オーストリア系ユダヤ人の家庭に生まれる[3]。父親のマーティン・コニグズバーグ(Martin Konigsberg, 1900年12月25日 - 2001年1月13日)と母親のネティー(Netty Cherrie Konigsberg, 1908年 - 2002年1月)はアレンが生まれてから妹のレッティ(Letty, 1943年 - )が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた。 ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アレンに対して激しい(時には手も出る)叱責を行った。妹のレッティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになっていった。 コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間ヘブライ語学校に通うことになった[4]。これは彼の宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリックスクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに熱中した。 16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつける。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いやつ」という評判が立ち[5]、アレンは徐々にコメディに傾倒し、その道を志望するようになっていった。アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン 1952年、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『ニューヨーク・デイリー・ミラー
経歴
少年時代
ギャグ・ライター
これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった[6]。 1953年、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学とスペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートはコメディ風といった調子で、結局中退してしまった[7]。ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、さぼり癖はおさまらず、またもや中退。母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズ
コメディアンとして
1955年、同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBCの放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモンやメル・ブルックス、ラリー・ゲルバードらとともに働いた。1958年、アレンとゲルバードは、シド・シーザーの特別番組でシルヴァニア賞を受賞し、同作品はエミー賞にもノミネートされた。『パット・ブーン・ショー』で再びエミー賞にノミネートされ、放送作家としての地位を確固たるものにした。なおこの時期ともに放送作家として名を連ねていた顔ぶれにはメル・ブルックスらもいた。しかし、アレンは放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、仕事の依頼が続々舞い込み続けた事からうつ病を患う様になり、1959年から精神科への通院を始めた。
『パット・ブーン・ショー』が打ち切られた1960年から、アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始めた。『ブルー・エンジェル』での初舞台は散々な評価に終わったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げて、人気を集めていった。1962年8月には、『ニューズウィーク』誌がアレンを「シェリー・バーマン、モート・サール、レニー・ブルースに次いで現れたコメディアンの中で最も革新的」と評価し、1963年2月には『ニューヨーク・タイムズ』誌が同様の舞台評を書くまでになった。評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。
なおそれまで放送作家としての活動は60年代初頭まで続けていたが、1960年、アート・カーニー主演の『愛のために万歳』、1962年のアラン・アルダ主演『ラフメーカーズ』といったテレビ映画で本格的に脚本家としてのキャリアをスタートさせている。 1965年の『何かいいことないか子猫チャン』で脚本兼俳優として映画デビューした。 生まれ育ったニューヨーク、特にマンハッタン周辺を舞台に多く選んでいる。その文化や暮らし、人々の精神性をテーマにすることが多く、しかもそこに住むユダヤ人のそれを主題とする。ユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックスや、自己意識などを織り込んだコメディを得意とする。演じる際には自らをカリカチュアライズしたようなユダヤ系の神経質なインテリを演じることが多い。 またアレンは、ハリウッドに背を向けた映画人でもある。『アニー・ホール』(1977年)で、アカデミー監督賞、作品賞を受賞した時も、授賞式には出席しなかった。アレンが唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年の授賞式で前年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者に捧げるオマージュとしての企画で、特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときである。
映画監督・俳優として
ニューヨーク
ハリウッド
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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