ウッドロウ・ウィルソン
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1856年12月28日にバージニア州スタントンにて、長老派牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目に誕生する[4]。祖先はスコットランド人及びスコッチ=アイリッシュであった。父方の祖父母は1807年に北アイルランドティロン県ストラベーンから移住した。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の1人である。

母親はペイズリー出身のトーマス・ウッドロウ博士と、グラスゴー出身のマリオン・ウィリアムソンの娘で、カーライルで生まれた[5]。母方の祖父母の白壁の家は、北アイルランドの観光名所となった[6]

ウィルソンの父親はオハイオ州スチューベンビル出身で、そこでは祖父が『ウェスタン・ヘラルド・アンド・ガゼット』紙を発行していた。同紙は関税支持および反奴隷制の立場にあった[7]。ウィルソンの両親は1851年に南に移動し、連合国を支持した。父親は奴隷制を擁護して奴隷を所有し、彼らのための日曜学校を開いた。父親の教会では傷ついた南軍の兵士の手当もした。彼はまた牧師として短期間南軍に従軍した[8]。ウィルソンの最も初期の記憶は、エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれ、戦争が始まったことであった。ウィルソンはロバート・E・リーの横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった[8]

ウィルソンの父は、1861年にアメリカ合衆国長老教会から分裂した南長老教会の創設者の一人であった。彼は南長老教会の初代常任牧師であり、1865年から98年まで書記を務め、1879年には長老教会総会議長を務めた。ウィルソン自身は14歳まで、父親が牧師を務めたジョージア州オーガスタで成長した[9]。父は彼に牧師を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった[10]

ウィルソンはディスレクシアの為に9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった[11]。しかしそれを克服するため、速記を独学で覚えた[12]。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、自宅で父の指導の下で学んだ後、オーガスタの小さな学校に通った[13]レコンストラクションの間はサウスカロライナ州の州都コロンビアで暮らし、父は同地でコロンビア神学校(英語版)の教授を務めた[14]

1873年にノースカロライナのデイビッドソン大学で学び、1年後にプリンストン大学へ編入して1879年に卒業した。彼はファイ・カッパ・サイのメンバーだった。2年目からは政治哲学と歴史に関する書籍を数多く読んだ。ウィルソンが公的生活に入るインスピレーションとなったのはイギリス人の議会スケッチ作家、ヘンリー・ルーシーであった。彼はアメリカン・ホィッグ・クリオソフィック・ソサエティ(英語版)の活動家であり、リベラル・ディベーティング・ソサエティを結成した[15]

1879年にバージニア大学で1年間法律を学んだ。卒業はしなかったものの、バージニア・グリー・クラブ(英語版)およびジェファーソン・リタリティ・アンド・ディベーティング・ソサエティ(英語版)の活動に深く関わり、会長を務めた[16]。しかしながら体調不良のため大学を辞めることにし、ウィルミントンの自宅に戻り、そこで法律の勉強を続けた[17]

この節の加筆が望まれています。

ニュージャージー州知事から大統領へ

ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党ウィリアム・タフトセオドア・ルーズベルトは互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果、ウィルソンは大統領選に勝利した。
大統領として連邦議会でドイツとの休戦協定を読み上げるウィルソン(1918年11月11日)。

ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。

任期1期目でウィルソン連邦準備法、連邦取引法(英語版)、クレイトン法、農業信用法(英語版)および1913年歳入法(英語版)に基づく初めての連邦累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンは政権に南部人を多く起用し、彼らが多くの連邦機関で人種隔離を拡大することを許容した[18]

第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に寄与した(再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込まなかった」であった)。しかし実際にはアメリカは連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、中立国の義務を果たしてはいなかった。これに対抗したドイツの無制限潜水艦作戦によって発生したルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦に際してウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽って労働運動・反戦運動などを弾圧した。

1917年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債(英語版)を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。戦時産業局(英語版)を設置し、労働組合の成長を促進した他、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。さらに最初の連邦レベルの麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。


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