1885年にブリンマー大学で歴史学及び政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任し、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。
1887年に執筆した論文『行政の研究』(ザ・スタディ・オブ・アドミニストレイション)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。 当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ 1856年12月28日にバージニア州スタントンにて、長老派の牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目に誕生する[4]。祖先はスコットランド人及びスコッチ=アイリッシュであった。父方の祖父母は1807年に北アイルランドのティロン県ストラベーン
大統領
生い立ち
母親はペイズリー出身のトーマス・ウッドロウ博士と、グラスゴー出身のマリオン・ウィリアムソンの娘で、カーライルで生まれた[5]。母方の祖父母の白壁の家は、北アイルランドの観光名所となった[6]。
ウィルソンの父親はオハイオ州スチューベンビル出身で、そこでは祖父が『ウェスタン・ヘラルド・アンド・ガゼット』紙を発行していた。同紙は関税支持および反奴隷制の立場にあった[7]。ウィルソンの両親は1851年に南に移動し、連合国を支持した。父親は奴隷制を擁護して奴隷を所有し、彼らのための日曜学校を開いた。父親の教会では傷ついた南軍の兵士の手当もした。彼はまた牧師として短期間南軍に従軍した[8]。ウィルソンの最も初期の記憶は、エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれ、戦争が始まったことであった。ウィルソンはロバート・E・リーの横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった[8]。
ウィルソンの父は、1861年にアメリカ合衆国長老教会から分裂した南長老教会の創設者の一人であった。彼は南長老教会の初代常任牧師であり、1865年から98年まで書記を務め、1879年には長老教会総会議長を務めた。ウィルソン自身は14歳まで、父親が牧師を務めたジョージア州オーガスタで成長した[9]。父は彼に牧師を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった[10]。
ウィルソンはディスレクシアの為に9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった[11]。しかしそれを克服するため、速記を独学で覚えた[12]。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、自宅で父の指導の下で学んだ後、オーガスタの小さな学校に通った[13]。レコンストラクションの間はサウスカロライナ州の州都コロンビアで暮らし、父は同地でコロンビア神学校(英語版)の教授を務めた[14]。
1873年にノースカロライナのデイビッドソン大学で学び、1年後にプリンストン大学へ編入して1879年に卒業した。彼はファイ・カッパ・サイのメンバーだった。2年目からは政治哲学と歴史に関する書籍を数多く読んだ。ウィルソンが公的生活に入るインスピレーションとなったのはイギリス人の議会スケッチ作家、ヘンリー・ルーシーであった。彼はアメリカン・ホィッグ・クリオソフィック・ソサエティ(英語版)の活動家であり、リベラル・ディベーティング・ソサエティを結成した[15]。
1879年にバージニア大学で1年間法律を学んだ。卒業はしなかったものの、バージニア・グリー・クラブ(英語版)およびジェファーソン・リタリティ・アンド・ディベーティング・ソサエティ(英語版)の活動に深く関わり、会長を務めた[16]。しかしながら体調不良のため大学を辞めることにし、ウィルミントンの自宅に戻り、そこで法律の勉強を続けた[17]。
この節の加筆が望まれています。 ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。
ニュージャージー州知事から大統領へ