ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。
任期1期目でウィルソン連邦準備法、連邦取引法(英語版)、クレイトン法、農業信用法(英語版)および1913年歳入法(英語版)に基づく初めての連邦累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンは政権に南部人を多く起用し、彼らが多くの連邦機関で人種隔離を拡大することを許容した[18]。
第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に寄与した(再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込まなかった」であった)。しかし実際にはアメリカは連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、中立国の義務を果たしてはいなかった。これに対抗したドイツの無制限潜水艦作戦によって発生したルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦に際してウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽って労働運動・反戦運動などを弾圧した。
1917年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債(英語版)を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。戦時産業局(英語版)を設置し、労働組合の成長を促進した他、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。さらに最初の連邦レベルの麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。
第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表した。疲弊したドイツ帝国は降伏し休戦協定の締結へと至った。ウィルソンはイギリスとフランスに「平和原則」を講和の前提とするように求めた。
パリ講和会議「パリ講和会議」も参照パリ講和会議におけるアメリカ全権団とそのスタッフ
ノーベル賞受賞者
受賞年:1919年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国際連盟創設への貢献[19][20]
第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日にフランスのパリへ出発した。ウィルソンは在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領である。ウィルソンは「平和原則」で示した公正な態度のため、連合国国民のみならず、旧中央同盟国国民からの期待も集めていた[21]。イギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた[22]。ウィルソンはフランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に講和会議の三巨頭として主要な案件に携わり、戦後秩序の決定者の一人となった。しかし十四か条の平和原則がそれまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容であったため会議参加国の反発を招いた。特にドイツに苛烈とも言える賠償を求めたフランスのクレマンソーとの対立は根深く、一時は会議決裂すら危惧される情勢であった。また、国際連盟建設については意欲的であり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会委員長にはウィルソンが自ら就任している[23]。
この委員会で日本全権の牧野伸顕らは、国際連盟規約に人種差別の禁止を盛り込むという人種的差別撤廃提案を提案した。ウィルソンの側近で代表団の一員であったエドワード・ハウス名誉大佐は日本側から草案を見せられた際に、ウィルソンも賛成するだろうと述べており、翌日にはウィルソンは大統領提案として人種差別撤廃を提案すると日本側に伝達している[24]。