IMUは、タジキスタン内戦(1992年-1997年)にタジキスタン・イスラム復興党の信任を得て参加、この時期、ペシャーワルでウサーマ・ビン=ラーディンとも繋がる。
タジキスタンやタリバーン支配下の北アフガニスタンをベースに、1999年から2000年にキルギス南部、及び、ウズベキスタン政府軍への攻撃を続けた。
2001年以降は、北部同盟及びアメリカ軍との戦闘で敗北を喫し、ナマンガニは戦死した。ユルダシェフは残党とともにパキスタンの連邦直轄部族地域にあるワズィーリスターンに逃げ込み、パキスタン政府転覆の戦いを続けた。
ユルダシェフはタジキスタン・イスラム運動(Islamic Movement of Tajikistan、IMT)の名も用いていたが、2002年以降アルカーイダとの関係を深め、中央アジア・イスラム運動(Islamic Movement of Central Asia、IMCA)の名でも運動を開始、支部に、トルキスタン・イスラム運動(Islamic Movement of Turkestan、IMT)もある。しかし、IMUもこれらの組織もワズィーリスターン以外での現在の勢力は不明である。
ユルダシェフは、2009年8月27日、南ワズィーリスターン・カニゴラムで無人航空機の攻撃を受け死亡した[1]。そして、ユルダシェフの後継者としてウスマン・アディール(ロシア語: Усман Адил、英語: Abu Usman Adil)が指名され、さらにその後ウスマン・ガズィ(ロシア語: Усман Гази、英語: Usman Ghazi)が後継者として指名された。
2011年4月、2012年3月26日、2012年4月7日にアフガニスタンのIMUはISAFの攻撃を受け、後継指導者はいずれも死亡した。
2014年6月8日のカラチの国際空港襲撃事件の犯行の関与を認めて、パキスタン・ターリバーン運動と協力を主張[2]。
2015年後半、最高指導者のウスマン・ガーズィ(英語版)はオマル師の死を巡ってマンスール師に対して反乱を起こしたムラー・ダードゥラーの部隊(英語版)と共にターリバーンの攻撃を受けて死亡した[3]。
脚注^ a b “ ⇒PROGRAM FOR CULTURE & CONFLICT STUDIES”. NAVAL POSTGRADUATE SCHOOL. 2013年1月23日閲覧。
^ ⇒“カラチ空港襲撃、ウズベキスタン・イスラム運動が関与主張”. (2014年6月14日). ⇒http://www.cnn.co.jp/world/35049322.html 2014年6月15日閲覧。
^ “How the Fall of the IMU Reveals the Limits of IS’ Expansion”. (2015年1月4日). https://news.siteintelgroup.com/blog/index.php/categories/jihad/entry/408-2015-retrospective-how-the-fall-of-the-imu-reveals-the-limits-of-is%E2%80%99-expansion 2021年6月13日閲覧。
関連項目
東トルキスタンイスラム運動
パキスタン・ターリバーン運動
キルギス日本人誘拐事件
不朽の自由作戦
アフガンにおける不朽の自由作戦
フィリピンにおける不朽の自由作戦
アフリカの角における不朽の自由作戦
トランス・サハラにおける不朽の自由作戦
その他
イラク戦争
ワジリスタン紛争
タイ深南部紛争
レバノン侵攻
ガザ紛争 (2008年-2009年)
ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害
生来の決意作戦
ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆
ロシア軍爆撃機撃墜事件
アイマン・ザワーヒリーの殺害
テロ攻撃
2001年 - 2004年
アメリカ同時多発テロ事件
バリ島爆弾テロ事件 (1)
スペイン列車爆破事件
イラク日本人人質事件
イラク韓国人会社員殺害事件
イラク日本人青年殺害事件
2005年 - 2008年
ロンドン同時爆破事件
バリ島爆弾テロ事件 (2)
2005年アンマン自爆テロ
ムンバイ列車爆破事件
パキスタン・モスク立てこもり事件
2007年ターリバーン韓国人拉致事件
アフガニスタン日本人拉致事件
2008年デンマーク大使館爆発事件 (パキスタン)
イスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件
ムンバイ同時多発テロ
2008年 - 2014年
2010年ストックホルム爆破事件
モスクワ地下鉄爆破テロ (2010年)
アレクサンドリア自爆テロ
ドモジェドヴォ空港爆破事件
2012年アメリカ在外公館襲撃事件