ウスマーン・イブン・アッファーン
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ウスマーンの最大の事業として、各地に様々な版が存在していたクルアーン(コーラン)の統一が挙げられる[11][72]。ムハンマドの存命中からクルアーンを書物の形にまとめる事業が続けられていたが、ウスマーンの時代には少なくとも4種類のクルアーンのテキストが存在し、文章と読み方は互いに異なっていた[2]。新たに改宗した非アラブ人の間では、それぞれが読むクルアーンの文が異なる問題が顕著になっていた[51][73]。ウスマーンはザイド・イブン・サービトを中心とする委員にクルアーンの「正典」を編集させ、他の版をすべて破棄させた。後世に作成されたクルアーンは、すべてウスマーン版(rasm Uthm?n?)のクルアーンに合致するものとされている[11]。ウスマーンの編纂事業より前に成立したクルアーンの中には廃棄を逃れたものもあり、イブン・アビー・ダーウードらによってクルアーン解釈学の資料として用いられた[74]。当時の人間からは不信仰にあたる行いとして激しい非難を受け[2]、ウスマーンを嫌った後世の人間はアブー・バクルがクルアーンを統一した伝承を作り上げた[74]。だが、思想を異にする多くの分派、神学者、法学者が用いるクルアーンの内容が統一されたことで、ウンマ(共同体)やイスラーム法の一体性が確保された[75]。さらに、政治・信条を巡る議論の正典への波及を防ぎ、共通の議論の場が提供されたことで、イスラーム文明に安定と発展がもたらされた[75]

また、ウスマーンの時代にはイスラーム国家の海軍が整備された[2]。ウマルの時代に海軍の増強は行われなかったが、度重なる東ローマ軍のエジプトへの攻撃に対して、シリア総督ムアーウィヤから艦隊の創設が提案された[76]。協議を経て、シリア人とエジプト人からなるアラブ発の艦隊が編成された[77]654年/55年[78]にエジプト、シリアから出港した艦隊はリュキア沖のマストの戦い(サーワーリーの戦い)で東ローマ艦隊に勝利を収め、東地中海の制海権を掌握する[2]
人物像

ウスマーンは謙虚な性格の人物で、自慢する事を嫌い、自分の考えを他人に強制しようとしなかった[13]。若年期のウスマーンは果実酒と賭け事を遠ざけて、若者たちのふざけ合いにも加わらない、倫理が失われていた当時のマッカで節度を保った生活を送っていた[13]。カリフとなった後も粗末な衣服を着て一般の信徒に混ざってモスクで昼寝をし、財産の多くを困窮した人間の救済に充てていた[79]。毎週の金曜日には奴隷を買い取り、彼らを奴隷身分から解放していたと伝えられている[32]。ウスマーンの行動は、寛大な性格と神とムハンマドに対する羞恥心に基づいていたと考えられている[80]。ムハンマドはウスマーンの寛大・謙虚な政策を称え、ウンマの中で最も恥を知り、信頼のおける人物として挙げた[81]。だが、敬虔かつ潔癖なウスマーンには、同族からの利益の要求を断れない弱さがあった[50]

ウスマーンは黄を帯びた白色の顔で、見事な顎鬚を持つ気品のある容貌の人物だと伝えられている[10]。金の針金で歯を束ねて飾り立て、顔にわずかに残っていた天然痘の跡はウスマーンの男性的な魅力をより高めていた[10]。優れた容貌と莫大な財産を持つウスマーンには多くの女性が近づいてきたが、ウスマーンは妻以外の女性と関係を持つことは無かった[13]

ウスマーンは在位中に国家の混乱を収拾することができなかったため、統治能力について否定的な評価を下されることが多い[11]。また、前任のカリフであるアブー・バクルやウマルのような尊敬を集める事はできなかった[78]


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