ウスマーン・イブン・アッファーン
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深手を負った後もウスマーンはなおクルアーンを抱きかかえ、クルアーンは彼の血で赤く染まったという[51][52]。ウスマーンを殺害した兵士たちは、国庫から財産を奪って逃走した[53]

ウスマーンの遺体は、殺害当日の日没の礼拝と夜の礼拝の間の時間にマディーナのハッシュ・カウカブに密かに埋葬される[5]。ウスマーンの墓の側には、彼を助けようとして殺害された召使いのサビーフとナジーフの遺体が埋葬された[5]。ハッシュ・カウカブは墓地であるバギーウの東に位置し、ハッシュ・カウカブを買い上げたウスマーンはこの場所が将来墓地となることを予見していたが、彼自身が最初に墓地に埋葬された人間となった[5]。ムアーウィヤはウマイヤ朝の建国後にハッシュ・カウカブのウスマーンの墓を詣で、土地の周りを取り囲んでいた壁を壊して、この地を墓地にするように命令した。また、ウスマーンが読んでいたと伝えられるクルアーンの写本は、タシュケントウスマーン写本[54]イスタンブールトプカプ宮殿(トプカプ写本)[55]に保管されている。

没時のウスマーンの年齢は80歳、85歳、あるいはイスラム教徒にとって重要な年齢である63歳と諸説ある[3][注 1]。歴史家のマスウーディーはウスマーンが没した時、彼の財産として東ローマの金貨100,000ディナール、ペルシアの銀貨1,000,000ディルハム、100,000ディナール相当の邸宅、私有地、多くの馬とラクダが遺されていたと記述している[56]。ウスマーンの殺害について、正統な権力の拒絶である故意の殺人で極刑に処すべきだとする意見、地位を乱用した人間に処刑を下したに過ぎないという意見が出され、二つの立場の議論は形を変えて数百年の間続けられた[57]。このため、ウスマーンの死はイスラームの政治理論と実践に大きな影響を与えたと考えられている[57]
政策

ウスマーンは政策を決定する場合には、古参の信徒や有識者からなる委員の合議にかけて意見を聞いていた[58]。アラブ人は短期間で広大な支配地を獲得したものの、統一された支配体制は未だに確立されていなかった[2]。行政の円滑化と中央集権化を推進するため、ウスマーンは自身の出身であるウマイヤ家の人間を中央・地方の要職に抜擢し[2]、彼がとった縁故主義は批判に晒された[50][59]。ウスマーンによるウマイヤ家出身者の起用に対し、ムハンマドの寡婦アーイシャは、ムハンマドの形見の衣服がそのまま残っているほど時間が経っていないのに、ウスマーンはスンナを忘れたのかと批判した[60]。アリーは、トラカーウ(630年のムハンマドのマッカ征服に際してイスラームに改宗した人間)であるウマイヤ家出身の総督が統治者にふさわしくないと考えていた[61]。ウマイヤ家出身の総督の解任を望む多くの教友に対し、ウスマーンは総督たちの行状を確認するために古参の教友を各地に派遣し、解任に相当する事由がない報告を受け取った[62]

650年の征服戦争の終結は、軍事行動に従事した兵士から戦利品による収入を絶ち、兵士たちは政府から支給されるわずかな俸給で生活していかなければならなくなった[2]。兵士たちはマディーナで富と権力を独占するイスラーム教徒の上層部に不満を抱き、彼らの第一人者であるウスマーンに憎しみが集中した[2]。東ローマ帝国との戦争に従軍することが予定されていたシリアのアラブ人は税制と居住地の面で優遇を受けていたため、彼らの中にはウスマーンとシリア総督を務めていたムアーウィアを支持する者が多かった[63]。しかし、クーファでは部族間・部族集団内での貧富の差が大きく、征服活動が終息した後に町では激しい内紛が起きた[64]。ウスマーンは征服軍の兵数が不足するエジプトへの移住を推進し、新旧の兵士の間に激しい衝突が起きた[64]


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