645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部は東ローマ帝国の攻撃を受ける。ウスマーンはそれらの土地の騒乱を鎮圧し、中断されていたペルシア遠征を再開した。ニハーヴァンドの戦いの後に進軍を中止していた遠征軍は、ウスマーンの命令を受けて進軍を再開した。650年にジーロフトに到達した遠征軍は、三手にわかれてマクラーン、スィースターン(シジスターン)、ホラーサーンを征服し、ペルシアの征服を完了する[2]。翌651年にメルヴに逃亡したペルシアの王ヤズデギルド3世は現地の総督に殺害され、サーサーン朝は滅亡した[41]。シリアからはメソポタミア北部への遠征軍が出発し、646年にアルメニア、650年にアゼルバイジャンを征服する。こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人の征服活動は、650年に終息する[2]。ウスマーンはカリフとして初めて中国に使者を派遣した人物と考えられており、651年に唐の首都である長安にイスラーム国家からの使者が訪れた[42]。
治世の後半、エジプトやイラクではウスマーンの政策への不満が高まった[11]。シリアにはウマルの時代に総督に任命されたムアーウィヤを引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーンの乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。ウスマーンが実施したウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた[2]。バスラやクーファに駐屯する兵士は俸給の削減によって苦しい生活を送り、地方公庫からの現金の支給を要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった[43]。ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた[44]。 654年にウスマーンは各地の総督をマディーナに招集して政情について討議を重ね、ムアーウィヤからシリアに避難するように勧められたが、ウスマーンは避難と護衛の派遣を拒否してマディーナに留まった[45]。656年バスラ、クーファ、エジプトの下級兵士は総督の不在に乗じて連絡を取り合い、マディーナに押し寄せた。ウスマーンはディーワーン職に就いていたマルワーンと改革派からの批判の対象となっている統治官の解任を条件にムハンマドの従兄弟アリーに助けを求め、アリーは兵士たちを説得して彼らを帰国させた[46]。しかし、数日後に兵士たちはマディーナに戻り、ウスマーンの退位を要求した。モスクでの説教と礼拝はウスマーンの支持者と反乱者の衝突の場となり、礼拝に現れたウスマーンに石が投げつけられる事件が起きる[47]。 数百人の反乱者はウスマーンの邸宅を取り囲んで方針の転換を要求し、ウスマーンの政策に不満を抱くマディーナの住民は彼を助けようとしなかった[48]。ウスマーンはイスラームとマディーナの守護のために各地の総督に援軍の派遣を要請し、またウスマーンの元を訪れた教友たちは反乱者の討伐、あるいは亡命を進言したが、ウスマーンは攻撃を拒んで邸宅に残った[49]。6月17日、兵士たちは彼の邸宅に押し入り、包囲の中でもウスマーンはクルアーンを読誦していた。アブー・バクルの子ムハンマドが最初にウスマーンを切りかかり[50]、ウスマーンは切りつけられながらもなおクルアーンの読誦を続けていた[51]。深手を負った後もウスマーンはなおクルアーンを抱きかかえ、クルアーンは彼の血で赤く染まったという[51][52]。
最期