ウスマン・ダン・フォディオ
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1755年にウスマンはハウサ諸王国(ハウサランド)の都市国家ゴビールで、カーディリーヤ派のフラニ人イスラム教徒の子として生まれる[6]。ウスマンの祖先はセネガルのフータ・トロ(英語版)地方から移住した人々で、トーロベ(トロッベ、イスラーム教育に従事する人々)の家系に属していた[7]。ウスマンは弟のアブドゥッラーヒとともにイスラーム神学、アラビア語についての教育を受け[6]マーリク学派の法学を修めた[2]。ウスマンはアガデストゥアレグ学者ジブリール・イブン・ウマルの元で学び、彼の紹介によってカーディリーヤ教団、ハルワティーヤ教団といったスーフィー教団に入会した[3]。20歳頃からウスマーンは教師、巡回説教師として活動を始める。

ウスマンはクルアーン(コーラン)の講義に力を注ぎ、スーフィズム(神秘主義)に則った禁欲的な生活を送る[6]。同時にイスラームの教義に反したハウサ人支配者層を批判し、ハウサ人の支配下に置かれているフラニ人に課せられた重税の軽減を主張した。ウスマンの支持者はハウサランド全土で増え、ハウサ人の王たちはウスマンが説く教説と彼の影響力に脅威を覚えるようになる[6]。ゴビールの王バワは影響力を高めるウスマンに対し、集会、参加者がターバンヒジャブ(ベール)といったイスラーム信仰を表す服装の着用を認めた[8]

ウスマンはゴビールとザムファラの国境に位置するデゲルに宗教共同体を作り、イスラーム信仰に則った自治を敷いた[8]。バワの後継者であるナファタはウスマンの共同体の拡大を恐れて共同体を弾圧し、1797年/98年にゴビールでの宣教、ターバンとヒジャブの着用が禁止された。ナファタの子ユンファはウスマンと彼の支持者を宮廷に召喚して彼らを捕らえようとし、ウスマンの支持者がダゲル近辺を通過するゴビールの兵士を攻撃して彼らが伴っていたイスラーム勢力の捕虜を解放したため、両者の関係は緊迫する[8]。ウスマンはユンファからダゲルからの退去を命じられ[8]1804年にウスマンと支持者たちはゴビールから脱出し、グドゥに移住した。ウスマンはデゲルからの移動を、預言者ムハンマドヒジュラに例えた[2][9]

1804年2月にウスマンは支持者によってアミール・アル=ムゥミニン(信仰の司令官、カリフ)に選出された[10]。ジハードにおいてウスマンはサルキン・ムスルミ(信仰の指導者)として神との仲介者との役割を果たし、戦闘は弟のアブドゥッラーヒと息子のムハンマド・ベロ(英語版)に委任していた[6]。1804年6月のタブキン=クワットの戦いでウスマンの軍はゴビールの軍に勝利を収め、ウスマンは戦闘をバドルの戦いに例えた[11]。戦闘に勝利した後、ウスマンは全てのハウサ人の王に改革の実施を求め、ジハード(聖戦)を宣言した(en:Fula jihads)[12]。ゴビール、ケッビ、ザムファラなどのハウサの諸勢力と戦い、それらの都市国家とハウサ周辺に居住する異教徒はフラニに従属を誓うようになった(フラニ戦争(英語版))。数度の敗戦を経て、ウスマンの軍は1808年にゴビールの首都アルカラワを占領する[12]

その後さらにジハードは拡大し、非イスラーム的信仰を行っていることを理由にカネム・ボルヌ帝国を攻撃した[11]。ゴビール攻略後にウスマンはソコトの町に戻って政治から離れ、カリフの称号を有しながら学究生活を送ったのち[13]、1817年に没した。後年、弟のアブドゥッラーヒによってウスマンの伝記が著された[14]
思想、影響

ウスマンの指導理念は、16世紀の法学者マギーリーと、スーフィズムを信奉するカーディリー教団の思想に基づいていた[2]。ウスマンはかつて師事していたアガデスの改革派イスラーム学者ジブリール・イブン・ウマルから、特に強い影響を受けた[3][1][2]


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