ウスマンらジハードの指導者は、政治改革にあたって正統カリフ時代の道徳水準の回復を志向していた[19]。戦争に敗れたハウサ諸侯の領土はウスマン配下の部将に付与され、彼らは獲得した土地と財産を守るためにハウサの諸王と同様の封建的支配を敷いた[20]。ウスマン自身は封建的な中央集権制度への回帰に抵抗し、配下の部将からの要求に機知をきかせて立ち回った[20]。ウスマンは土地は神に帰するもので誰も売却する事はできないと定めていたが、ある時部将たちは土地の売却の許可を願い出た[20]。そこでウスマンはコップ一杯の土を市場に売りに出したが、2,3日経っても誰も買い手は現れなかった。ウスマンは部将たちを集め、誰も買おうとしないものを売る権利を与えても意味がないだろうと説き伏せた。
ハウサ人のムスリムの中には、戦争中にフラニ人が支配層の中枢を占め、彼らの土地の略奪に落胆してウスマンの軍から離れた者もいた[12]。また、ハウサランドを放浪する盲目の吟遊詩人によって、ウスマンの事績と彼のジハードを讃えるハウサ語の叙情詩が詠われた[21]。叙情詩はフラニ人の支配を正当化する目的で作られたものだと考えられているが、ハウサ語による詩作活動に強い影響を与えた[22]。
ウスマンは識字の有用性を認識し、男女両方に対する教育の普及を提唱した[23]。このため、ウスマンのジハードによってソコト全土の学力水準が向上したと考えられている[23]。
脚注^ a b クローダー、アブドゥラヒ『ナイジェリア』、103頁
^ a b c d e f g 坂井「ウスマン・ダン・フォディオ」『岩波イスラーム辞典』、196-197頁
^ a b c d e 福井、大塚、赤阪『アフリカの民族と社会』、363頁
^ 川田『黒人アフリカの歴史世界』、339頁
^ 嶋田『黒アフリカ・イスラーム文明論』、196頁
^ a b c d e f g コリンズ「ウスマン」『世界伝記大事典 世界編』2巻、222-223頁