その後さらにジハードは拡大し、非イスラーム的信仰を行っていることを理由にカネム・ボルヌ帝国を攻撃した[11]。ゴビール攻略後にウスマンはソコトの町に戻って政治から離れ、カリフの称号を有しながら学究生活を送ったのち[13]、1817年に没した。後年、弟のアブドゥッラーヒによってウスマンの伝記が著された[14]。 ウスマンの指導理念は、16世紀の法学者マギーリー
思想、影響
1794年にウスマンはカーディリー教団の開祖アブドゥルカーディル・ジーラーニーから剣を授けられる霊的体験を経て、自身に課せられた使命をより強く自覚したと言われる[2][15]。また、18世紀にギニアのフータ・ジャロン地方、セネガルのフータ・トロ地方で起きたイスラム教徒による建国運動が、ウスマンのジハードに影響を与えたと考えられている[16]。ウスマンが大衆の支持を集めた理由の一つに、ヒジュラ暦13世紀初頭にマフディー(救世主)が出現するという伝承がある[2][17]。ウスマンは自分がマフディーであることを否定し、自身をマフディーの前兆と位置付けていた[8]。ウスマンによるジハードと正当な信仰への回帰は、ハウサランド外の西アフリカ一帯に広まった[6]。ウスマンの呼びかけに応じ、カメルーン北部、アダマク高原でもフラニ人によるジハードが起きた[18]。セネガルのアル・ハッジ・オマルはオスマンの思想を容れ、トゥクロール帝国を建国した[6]。
ウスマンらジハードの指導者は、政治改革にあたって正統カリフ時代の道徳水準の回復を志向していた[19]。戦争に敗れたハウサ諸侯の領土はウスマン配下の部将に付与され、彼らは獲得した土地と財産を守るためにハウサの諸王と同様の封建的支配を敷いた[20]。ウスマン自身は封建的な中央集権制度への回帰に抵抗し、配下の部将からの要求に機知をきかせて立ち回った[20]。ウスマンは土地は神に帰するもので誰も売却する事はできないと定めていたが、ある時部将たちは土地の売却の許可を願い出た[20]。そこでウスマンはコップ一杯の土を市場に売りに出したが、2,3日経っても誰も買い手は現れなかった。ウスマンは部将たちを集め、誰も買おうとしないものを売る権利を与えても意味がないだろうと説き伏せた。
ハウサ人のムスリムの中には、戦争中にフラニ人が支配層の中枢を占め、彼らの土地の略奪に落胆してウスマンの軍から離れた者もいた[12]。また、ハウサランドを放浪する盲目の吟遊詩人によって、ウスマンの事績と彼のジハードを讃えるハウサ語の叙情詩が詠われた[21]。叙情詩はフラニ人の支配を正当化する目的で作られたものだと考えられているが、ハウサ語による詩作活動に強い影響を与えた[22]。
ウスマンは識字の有用性を認識し、男女両方に対する教育の普及を提唱した[23]。このため、ウスマンのジハードによってソコト全土の学力水準が向上したと考えられている[23]。
脚注^ a b クローダー、アブドゥラヒ『ナイジェリア』、103頁
^ a b c d e f g 坂井「ウスマン・ダン・フォディオ」『岩波イスラーム辞典』、196-197頁
^ a b c d e 福井、大塚、赤阪『アフリカの民族と社会』、363頁
^ 川田『黒人アフリカの歴史世界』、339頁
^ 嶋田『黒アフリカ・イスラーム文明論』、196頁
^ a b c d e f g コリンズ「ウスマン」『世界伝記大事典 世界編』2巻、222-223頁