ウジェニー・ド・モンティジョ
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1855年、イギリス王室からの招待で、皇帝と共にイギリスを公式訪問した。結婚を反対されたヴィクトリア女王らと会うのが非常に気がかりであったウジェニーであるが、この公式訪問は大成功に終わった。クリミア戦争における同盟関係を結び、ウジェニーはヴィクトリア女王から非常に気に入られ、2人は生涯の友人となった。ウジェニーは公式訪問の際にヴィッキー王女(女王の長女ヴィクトリア、後のドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着せるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮している。ヴィクトリア女王からは画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、多くの肖像画を残している。翌年のパリ万国博覧会にはイギリス訪問のお礼に、イギリス王室の人々をフランスに招待した。1856年3月16日、ウジェニーは皇子を生んだ。ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン4世)である。ウジェニー・ド・モンティジョ 文久遣欧使節(1862)漢方医高嶋祐啓画

ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献した。彼女は、パウリーネ・メッテルニヒと大変親密な友人関係を持っていた。パウリーネは在フランス・オーストリア大使の妻であった。フランス宮廷での彼女は社会的、文化的生活に重要な役割を演じる。

ウジェニーが1855年に着けた新しい骨組みのクリノリンは、ヨーロッパの宮廷ファッションに流行を巻き起こした。そして彼女が、1860年代の終わりに大きなスカートを捨てると、彼女の伝説めいた宮廷人シャルル・フレデリック・ウォルトの奨励によって、ウジェニーのファッションは再び流行となった。

ウジェニーの貴族的気品、豪華なドレスと伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家フランツ・ヴィンターハルターによって記録されている。ウジェニーのマリー・アントワネットの生涯に寄せる想いは、ルイ16世治世時に人気があった新古典様式の家具とインテリアデザインとして宮廷の装飾に反映された。「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后の身を案じる人々もいた。ウジェニーとルイ皇太子のナポレオン生誕地への旅(1869年8月)J.フェラ[1]

煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もないころから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響を与え、1866年には女性を初めて電報局で雇用している。

ウジェニーはフランスで教育を受け、大変知性があったので、ナポレオン3世はよく重要な問題を彼女に相談していた。そして1859年1865年および1870年の皇帝の留守の間、彼女は摂政として行動した。カトリックで保守的なウジェニーの影響力は、帝政のあらゆるリベラル勢力と対立した。彼女は、イタリアでの教皇の世俗権力の忠実な守護者であり、ウルトラモンタニストであった。このためウジェニーは憎まれ、しばしばフランスの反教権主義者によって中傷された。
普仏戦争以後喪服姿のウジェニー、1873年

普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(英語版)に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーファーンバラにある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語コルシカを意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。ウジェニーの霊廟
(聖マイケル修道院、2008年撮影)

ウジェニーは1920年7月に死去した。94歳であった。姉の孫の17代アルバ公を訪ねてスペインマドリードに滞在していた際の死であった。彼女は1881年に自身が設立していたファーンバラの聖マイケル修道院(英語版)に、夫と、1879年南アフリカズールー戦争で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌとともに埋葬された。

ウジェニーは様々な親戚に財産を遺した。彼女の不動産はアルバ家に嫁いだ姉の孫が相続した。ファーンバラの別荘は全てのコレクションともに、夫の従弟ナポレオン公の息子、「ナポレオン5世」ことナポレオン・ヴィクトル・ボナパルトが相続し、Cyrnos荘はさらにその妹レティティアに渡った。動産ランス大聖堂再建委員会に譲渡された10万フランを除いて、近親者に与えられた。

ウジェニーの没落した家族の友好協会は、1887年にイギリスで、彼女がヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ(後にスペイン王アルフォンソ13世の妃になる)の代母になった時に結成された。バルモラル城で生まれたヴィクトリア・ユージェニーは、スコットランド長老派教会の洗礼を受けていて、この洗礼は初期のエキュメニズムの例だった。1世紀後、1990年に生まれたヨーク公アンドルーの次女はユージェニーと命名された。

皇后は宇宙にも名を残している。小惑星ウージェニアは彼女にちなんで命名され、その衛星プティ・プランスは彼女の息子にちなんで命名された。
称号

Dona
[2] Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzman Portocarrero y Kirkpatrick(誕生時から父の死まで)

Her Excellency Dona Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzman Portocarrero y Kirkpatrick, 9th Countess de Teba (父の死亡時から結婚まで)

Her Imperial Majesty The Empress of the French (1853年-1871年)as well as Her Imperial Majesty The Empress-Regent during several periods (including Italian, Crimean and Franco-Prussian wars)

Her Imperial Majesty Empress Eugenie of the French (1871年-1920年)

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ウジェニー・ド・モンティジョに関連するカテゴリがあります。

(カテゴリ)ウジェニー・ド・モンティジョのコルシカ旅行 - ウジェニーはナポレオン生誕100年となる1869年8月に、息子のルイ皇太子とナポレオン生誕地のコルシカ島を旅行し、各地で慈善活動も行なった。この旅行の模様は雑誌「ル・モンド・イリュストレ」が取材し、同誌の9月4日号と9月11日号に掲載された。

クリノリン

ゲラン - 香水・EAU IMPERIALE eau de cologneを彼女のために作っている

ルルド#歴史

ルイ・ヴィトン - 荷造り業者からウジェニー御用達になり旅行用品業者となった

ビアリッツ - ウジェニーが別荘を建てたことから高級別荘地になった

脚注[脚注の使い方]^ル・モンド・イリュストレ」掲載、メゾン・ボナパルト博物館(フランス語版)蔵。


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