ウサーマ・ビン・ラーディン
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生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている[16][17]

父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった[16]。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ[18]、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた[16][19]。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学経営学を学んだ[20]。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や[21]、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で[22]、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する[23]

大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか[24]、詩作にも興味を示し[25]バーナード・モントゴメリーシャルル・ド・ゴールの著作を好んで読んだと言われている[26]。思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽映画などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった[26]
アフガニスタン紛争への参加(1979?1989年)

ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた[27]。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている[28]

1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた[29]。ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた[30][31]。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した[29]。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーオマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。

1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した[29]。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた[32]。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年のジャジの戦い(英語版)ではソ連軍に勝利したことになり(実際には、ソ連軍の死者2名に対しゲリラ側の死者120名という惨状であった)、アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった[32]。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった[33]

1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦[34]。ジャーナリストのジェイソン・バーク(英語版)によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた[35]。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハミド・グル(英語版)中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍が全面的に担当していた[36]
アルカーイダの結成詳細は「アルカーイダ」を参照

1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった[37]

1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した[38]。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた[30][39]。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された[30][38]


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