身長195cm[1]、体重94kg[1]。短距離走において190cm以上の長身の選手はスタート時の静止状態からの加速が鈍くなるために不利とされるが、ボルトは275cmの非常に大きなストライド走法を活かし、レース中盤から加速して他を引き離す後半追い込み型。加えて序盤も速く、北京オリンピックおよび2009年世界陸上競技選手権大会陸上男子100m決勝での前半50m地点のタイムは非公式ではあるが室内世界最高記録を上回っている[5]。身体が大きいためかスタートのリアクションタイムが長い傾向にあったが、同じく長身ながら世界最速のスタートを行うとされる同郷のアサファ・パウエルを参考にし改善されている。契約スパイクはプーマ(PUMA AG Rudolf Dassler Sport)である。
日本陸連科学委員会が2009年8月の世界選手権100メートル競走決勝におけるボルトの走りを分析した結果によれば、最高速に達した時点でのボルトの歩幅は2m75cm、ゴールラインを超える最後の一歩は2m99cmに達し、これは100メートル競走における史上最大級の歩幅であるという。また、身長に対する歩幅の比も140パーセントと他の選手に対して大きい[6]。
肩を大きく上下させる独特なフォームが特徴である。これは持病の脊椎側彎症によるもので、不安定に揺れる背骨のために、骨盤は肩とのバランスをとろうと互いに大きく揺れ動き、身体を支えようとしている。骨盤の左右非対称な動きはトップスピード時の左右のストライドに約20センチメートルの差を生み出している。骨盤の揺れはハムストリングスに大きな負担を与えており、引き起こされる肉離れに悩まされることになった。2004年のオリンピック200mでは大会前からの影響により1次予選敗退、2005年の世界選手権200mではレース中に発症し、周囲から限界説が囁かれることもあった。ボルトのコーチは、脊椎側彎症によるハムストリングスなどの身体への影響を考え、100メートルでの走りを希望するボルトを200メートル専門で戦わせてきた。また、ハムストリングスへの負担軽減のため、バイエルン・ミュンヘンのチームドクターのもと3年計画で筋肉強化を徹底した。トレーニングの結果怪我が減り、2007年の世界選手権200mで銀メダルを獲得するまでの結果を出す頃になると、コーチも100メートルへの出場に反対できなくなった[7][8]。
2010年9月、英BBC放送のラジオ番組で、将来的にプロサッカー選手への転身を考えていることを明らかにした。また、米国プロスポーツ最高峰のNFL関係者がボルトに強い関心を示し、ボルトに接触を試みたがボルトは『アメフトのルールを知らない。』という理由で、これを断った。 17歳の時に200mで20秒を切る[注釈 3] など若年から将来を期待されていたが、身体の成長に伴う故障が数年にわたって続いた。それを克服し100m、200mの世界記録保持者となった。 ジュニア時代は100mでは記録を残しておらず、400mでは2003年に45秒35を出している。これは同年のジュニア世界ランク4位である。これに加えて長身であることから、100mに本格的に取り組むまではスタート面で不利な100mより、無理なく歩幅を稼げる事がより有利な400mの方が向いているのではないかともされた。本人も北京オリンピック後の2008年12月には、「オリンピックや世界選手権などの大試合が無い2010年には、マイケル・ジョンソンの保持する400mの世界記録(43秒18)の更新を狙える」と宣言していたが[9]、2009年11月に自ら挑戦を否定した(後述)。 憧れの選手は、マイケル・ジョンソン、ドン・クォーリーなど。 ジャマイカ西部のトレローニーで西アフリカ系の家庭に生まれる。彼とその兄弟には、Usain(???????? ?usayn フサイン)、Sadeeki(シッディーク)、Sherine(????? Shirin シーリーン)と、いずれもアフリカで流通するアラビア語・ペルシア語系の名がつけられている。10代前半まではクリケットの選手だった[10]。 2002年に地元ジャマイカで行われた世界ジュニア選手権で大会史上最年少(当時)の15歳で優勝。その名を轟かせた。更に、翌年の世界ユース選手権でも優勝し、2004年には200mで、17歳にしてジュニア史上初めて20秒を切る19秒93のジュニア世界新記録を出した。この頃から彼は自分自身の才能に気付き始めたという。しかし、この年はその後故障。連覇のかかった世界ジュニアも出場できなかった。そして、大型新人としてアテネオリンピックには果敢に出場するも、一次予選で惨敗(21秒05で5着)、苦汁を嘗めた。 2005年に行われた世界選手権では、決勝には進んだものの、足を痛めた影響で最下位(26秒27,-0.5 m/s)となった。 2007年8月30日、世界選手権200m決勝において、19秒91(-0.8 m/s)で銀メダルを獲得する。優勝は19秒76の大会新(当時)を記録した、100m王者のタイソン・ゲイである。これまで練習嫌いであったボルトは、この時ゲイに負けたことをきっかけに、勝つために練習の鬼になることを決意。 2007年9月1日、世界選手権400mリレー決勝では2走を務め、37秒89(ジャマイカ新記録(当時))で銀メダルを獲得する。 2008年にはジャマイカ国際の100mで、9秒76(+1.8 m/s)(世界歴代2位(当時))で優勝する。100mでも世界トップレベルであることを証明した。200mにおけるスタートの練習として参加したものである。 2008年8月16日、北京オリンピック陸上男子100m決勝では、レース前に、後にボルトの象徴となるポーズを見せた。レースでは中盤から他選手を圧倒、最後の数歩を両手を広げながら流して走り、フィニッシュの際も胸を手で叩く程の余裕を見せた。それでも自らの世界記録(当時)を0秒03上回る9秒69(+0.0 m/s)の世界新(当時)で圧勝という、世界大会史上空前のパフォーマンスとなった。公認された記録では人類で初めて9秒6台で走った男となり、最後まで全力で走っていれば9秒6を切れたとする発言も複数ある[11][12][13]。2位には、0秒20の差をつけ、この差は電気時計が採用された1968年以降では1984年のロサンゼルスオリンピックにおけるカール・ルイスと並ぶ、オリンピック史上最大差である。
略歴
経歴
1986年
2002年?2004年
2005年
2007年
2008年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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