ウクライナ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくにつれて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた[25]1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなった。
語源V・コロネリ(英語版)による東欧地図(1690年)。キエフを中心とした地域は「VKRAINE ou PAYS DES COSAQUES(ウクライナあるいはコサックの国)」と記されている。隣の「OKRAINA(辺境)」はロシア南部の国境地帯を指す。

「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ (?краина)」・「ヴクライナ (вкраина)」という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ (okrajna)」や、ロシア語の「オクライナ (окраина)」という単語に基づいている[27]

「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、最も基本的で、現在でも使用されている一音節の「クラーイ (край)」という単語には「地域」「隅」「境」「端」などの複数の意味がある[28]。これから派生したウクライナ語の「クライーナ (кра?на)」という名詞は「国」を意味する[29]。ウクライナ語では「ウ? (у-)」[30]と「ヴ? (в-)」[31]は「内?」「?の中で」を意味する前置格を支配する前置詞であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ (окраина)」という単語が「場末」「辺境」「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ? (о-)」[32]と「ウ? (у-)」[33]は「?の側に」「?の端に」を意味する前置詞なので、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。
歴史詳細は「ウクライナの歴史」を参照
古代詳細は「スキタイ」および「サルマティア人」を参照

紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地には様々な遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族スキタイ人は、紀元前6世紀頃にキンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸には古代ギリシア植民都市が建設され、地中海世界メソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、古代ギリシア、ローマ帝国の文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。

2世紀頃に東ゴート族が王国を建て、3世紀中頃にクリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点はのちに都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃に移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあったとされる。
中世詳細は「キエフ大公国」、「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」、および「モンゴルのルーシ侵攻」を参照ヴォロディーミル聖公の洗礼

8世紀頃、ウクライナではルーシという国が誕生し、東スラヴ人のポリャーネ族の町キエフはその首都となった[34]882年オレグ公(882年 - 912年)が率いる北欧ヴァイキングがキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系のリューリク大公朝のものとなった[34]。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシをキエフ・ルーシ、あるいはキエフ大公国と呼ぶ[34]オリハ大公女945年 - 965年)、その子息スヴャトスラウ大公965年 - 972年)、孫ヴォロディーミル大公980年 - 1015年)、および曾孫ヤロスラウ大公(1019年 - 1054年)の治世はルーシの全盛期となった[34]。キエフの大公朝は、周辺の東スラヴ人をはじめ、北西のバルト人と、北東のフィン・ウゴル人を征服し、支配領域を拡大させた。その結果、11世紀におけるルーシは約150万平方キロメートルの面積を誇る、欧州の最大の国家となった[34]。ルーシは、北方のバルト海フィンランド湾から南方のウクライナ草原まで、そして西方のカルパティア山脈から東方のヴォルガ川まで広がっていた[34]。周辺の諸政権が滅ぼされ、全ての国土はリューリク朝の諸侯の間に分けられた。988年にヴォロディーミル大公のころ、ルーシ人東ローマ帝国からキリスト教(のちの正教会)を受けて国教とした[34]。この出来事はウクライナの運命を決し、ウクライナはキリスト教文化圏に属することとなった。12世紀にルーシは領土をめぐる諸侯の争いによりいくつかのリューリク系の諸公国に分裂し、キエフ大公の権威が衰退した。名目上でキエフはルーシの首都の役割を果たしていたが、諸公国は事実上の独立国となった。13世紀にルーシの国体は完全に退勢し、1240年代モンゴル帝国の軍による侵攻(モンゴルのルーシ侵攻)で滅ぼされた[34]

キエフの衰退後、ルーシの政治・経済・文化の中心は、西ウクライナにあったハーリチ・ヴォルィーニ大公国へ移された。当国には、ヴォルィーニ地方、ハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方、ザカルパッチャ地方、ポリーシャ地方、キエフ地方からなっていた[35]。大公国の基礎は、1199年にリューリク朝の嫡流の血を引くロマン大公によって築かれた[36]1245年にロマンの子息ダヌィーロ大公は、モンゴル帝国のジョチ・ウルス朝貢して従属したが、カトリックのヨーロッパの支援を期待してポーランド、マゾヴィア、ハンガリー、ドイツ騎士団と密約を交わし、独立戦争を計画した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:394 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef