ウクライナ
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1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した[54][注釈 6]

一方、オーストリア?ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィアブコビナ地方に住んでいたウクライナ人はリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランスイギリス、ルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日リガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した[55]

またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され、滅亡した。

中央議会の議会堂

ウクライナ国の国章

ヘトマン・スコロパードシキー

西ウクライナの国章

社会主義時代詳細は「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」、「ホロドモール」、「カルパト・ウクライナ」、「ウクライナ民族主義者組織」、「ウクライナ蜂起軍」、および「キエフの戦い (1941年)」を参照

1922年12月30日ウクライナ社会主義共和国は、ロシアベラルーシザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した[56]。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった[57]

1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった[58]。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家知識人文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した[59]

ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉1921年 - 1922年1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカカナダイタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されている[60]が、国際連合欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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