ウクライナ
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16世紀にコサックは、ザポロージャシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した[39]。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争1558年 - 1583年)、ロシア・ポーランド戦争1605年 - 1618年)、ポーランド・オスマン戦争(英語版)(1620年 - 1621年)、スモレンスク戦争1632年 - 1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァクリミア、ロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争カトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、コスィーンシキーの乱1591年 - 1593年)、ナルィヴァーイコの乱1594年 - 1596年)、ジュマイロの乱(1625年)、フェドロヴィチの乱(1630年)、スリーマの乱(1635年)、パウリュークの乱(1637年)とオストリャニンの乱(1638年)であった[40][41]

1648年ボフダン・フメリニツキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいてフメリニツキーの乱を起こした。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した[40][42]1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはペラヤースラウ会議 (1654年)でロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人とヴィリニュス条約を結び単独和議したため、スウェーデン、トランシルヴァニアと同盟を締結した[43]1657年、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年コノトプの戦いで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約(ハヂャチ条約)を結んだためにコサック長老の支持を失った[40]。荒廃時代と呼ばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ左岸ウクライナザポロージャという地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。1667年にこのような分割はアンドルソヴォ条約によって公認された。1672年に新たな将軍ペトロ・ドロシェンコは、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実行しようとした(トルコ・ポーランド戦争(1672-1676)、露土戦争 (1676年-1681年))が失敗し、バフチサライ条約 (1681年)がロシアとオスマン帝国の間で結ばれた[44]1689年にロシアとポーランド・リトアニアは永遠和平条約により最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。1709年に、大北方戦争の際、イヴァン・マゼーパ将軍が引率したコサックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようと図ったが、ポルタヴァの戦いに惨敗した[45]。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を廃止する政策に乗り出した。1754年にロシアはロシア・ウクライナの関税国境を廃止し、1764年にコサック将軍の位(ヘーチマン)を廃止した。廃位させられた最後の将軍キリロ・ロズモウシキーはロシアの元帥に任じられた。1775年にロシア軍はザポロージャのシーチを破壊し、1781年にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年、ロシア国内にならってウクライナで農奴制が敷かれた[40][46]。また、1783年には、ロシアは15世紀から続いていたクリミア・タタール人を中心とするイスラム国家クリミア汗国を滅ぼし、クリミア半島を併合した。

コサックの結婚式

コサック国の国章

タタールとの小競り合い

マゼーパ将軍

ロシア帝国時代詳細は「ロシア化」を参照コサック軍を率いるエネーイ棟梁を描いた『エネイーダ』の表紙

18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義民族主義の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。1798年に、イヴァン・コトリャレーウシキーによるコサック国家の再建を謳う叙事詩エネイーダ』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の口語で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的ルネサンスの序幕でもあった[47]1806年ハルキウ大学が設立されると、ウクライナの知識人によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった[48]1825年頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた[48]ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった[49]

露土戦争におけるキュチュク・カイナルジ条約でロシア帝国のウクライナ統治が行われるようになる。ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止するエムス法(ウクライナ語版)が定められた[50]


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