ウクライナ
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当国には、ヴォルィーニ地方、ハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方、ザカルパッチャ地方、ポリーシャ地方、キエフ地方からなっていた[35]。大公国の基礎は、1199年にリューリク朝の嫡流の血を引くロマン大公によって築かれた[36]1245年にロマンの子息ダヌィーロ大公は、モンゴル帝国のジョチ・ウルス朝貢して従属したが、カトリックのヨーロッパの支援を期待してポーランド、マゾヴィア、ハンガリー、ドイツ騎士団と密約を交わし、独立戦争を計画した。1253年ローマ教皇インノケンティウス4世から王冠を受けてルーシの初王(ルーシ王)となり、ジョチ・ウルスとの戦いに挑んだ[37]1256年頃、モンゴルのクレムサ軍に勝利したダヌィーロ王は、20年後にルーシの首都となるリヴィウを創建した。しかし、1259年に欧州が約束した援軍がなかったため、ダヌィーロは再びジョチ・ウルスに服属せざるを得なかった。その後、ダヌィーロの息子レーヴ1世はモンゴル軍に従ってポーランドとリトアニアへの遠征に参加した。1308年にダヌィーロの曾孫アンドリーとレーヴ2世はマゾヴィアとドイツ騎士団と手を組んで独立戦争を再開したが、彼らの後継者ユーリー2世は無益な戦争をやめてジョチ・ウルスに従属した。

1340年にユーリー2世の暗殺により王朝が断絶すると、隣国のポーランド王国とリトアニア大公国が王国の相続権を主張し、ハールィチ・ヴォルィーニの領土継承をめぐる戦争を開始した。1392年にポーランドはハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方を併合し、そのほかの領土はリトアニア大公国のものとなった[38]。リトアニアはルーシ語を公用語とし、正教を国教にするなど、ルーシ人に対して宥和政策をとって次第にルーシ化したが、ポーランドは新たな領土のポーランド化を進めた。

その結果、14世紀末におけるウクライナの地域は他国の支配を受け独立国としての地位を失った。リトアニアはキエフ地方、チェルニーヒウ地方、ヴォルィーニ地方を中心とする北部・中部を確保した。ポーランドはハーリチ地方とポジーリャ地方からなる西部を統治した。南部は、1447年にジョチ・ウルスから独立したクリミア汗国が支配するようになった。無人だった東部は次第にモスクワ大公国(のちのロシア)の領域に入った。1569年にポーランドとリトアニアがポーランド・リトアニア共和国という連合国家を形成したことにより、ウクライナの北部と中部はポーランド領となった。ウクライナではルーシ県、ポジーリャ県、ヴォルィーニ県、ブラーツラウ県、ベールズ県、キエフ県というポーランドの行政単位に設置され、1598年にブレスト合同により正教会は禁じられた。

キーウのソフィア大聖堂

ヴォロディーミルの紋

ルーシ王国の国章

16世紀のルーシ系貴族

近世
コサック時代コサックのウクライナを背景にしたフメリニツキー将軍(18世紀初頭)。右上の隅にコサック国家の国章「銃士」と、足元にコサック国家の簡単な地図が描かれている。詳細は「コサック」、「コサック国家」、および「ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)」を参照

15世紀後半、リトアニアロシアクリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、コサックという武人の共同体が成立した。16世紀にコサックは、ザポロージャシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した[39]。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争1558年 - 1583年)、ロシア・ポーランド戦争1605年 - 1618年)、ポーランド・オスマン戦争(英語版)(1620年 - 1621年)、スモレンスク戦争1632年 - 1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァクリミア、ロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争カトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、コスィーンシキーの乱1591年 - 1593年)、ナルィヴァーイコの乱1594年 - 1596年)、ジュマイロの乱(1625年)、フェドロヴィチの乱(1630年)、スリーマの乱(1635年)、パウリュークの乱(1637年)とオストリャニンの乱(1638年)であった[40][41]

1648年ボフダン・フメリニツキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいてフメリニツキーの乱を起こした。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した[40][42]1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはペラヤースラウ会議 (1654年)でロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人とヴィリニュス条約を結び単独和議したため、スウェーデン、トランシルヴァニアと同盟を締結した[43]1657年、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年コノトプの戦いで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約(ハヂャチ条約)を結んだためにコサック長老の支持を失った[40]。荒廃時代と呼ばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ左岸ウクライナザポロージャという地域に分かれた。


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