ウクライナ
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しかし、その後の2019年9月、同大使館や日本国外務省の代表者や国会議員、ウクライナ語専門家の参加を得て開催されたウクライナ研究会主催の「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」において「国号について、ウクライナの変更はしない」という結論が出され、同大使館案は採用されなかった[19]漢字表記は現在の日本では滅多にされないが、「宇克蘭」、または「烏克蘭」[20]と表記される[注釈 4]

「ウクライナ」というスラヴ語の地名の初出は、『原初年代記イパチー写本の「キエフ年代記」にある1187年の条である[21]。この地名は、キエフ公国チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記の1189年の条[22]1213年の条[23]1280年の条[24]にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」という形で登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。

13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国ポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラーツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している[25]

「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している[注釈 5]。しかし、ヘーチマン国家がロシアの保護国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ロシア(小ルーシ)という地名の同義語となった。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくにつれて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた[25]1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなった。
語源V・コロネリ(英語版)による東欧地図(1690年)。キエフを中心とした地域は「VKRAINE ou PAYS DES COSAQUES(ウクライナあるいはコサックの国)」と記されている。隣の「OKRAINA(辺境)」はロシア南部の国境地帯を指す。

「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ (?краина)」・「ヴクライナ (вкраина)」という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ (okrajna)」や、ロシア語の「オクライナ (окраина)」という単語に基づいている[27]

「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、最も基本的で、現在でも使用されている一音節の「クラーイ (край)」という単語には「地域」「隅」「境」「端」などの複数の意味がある[28]。これから派生したウクライナ語の「クライーナ (кра?на)」という名詞は「国」を意味する[29]。ウクライナ語では「ウ? (у-)」[30]と「ヴ? (в-)」[31]は「内?」「?の中で」を意味する前置格を支配する前置詞であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ (окраина)」という単語が「場末」「辺境」「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ? (о-)」[32]と「ウ? (у-)」[33]は「?の側に」「?の端に」を意味する前置詞なので、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。
歴史詳細は「ウクライナの歴史」を参照
古代詳細は「スキタイ」および「サルマティア人」を参照

紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地には様々な遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族スキタイ人は、紀元前6世紀頃にキンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸には古代ギリシア植民都市が建設され、地中海世界メソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、古代ギリシア、ローマ帝国の文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。

2世紀頃に東ゴート族が王国を建て、3世紀中頃にクリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点はのちに都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃に移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあったとされる。
中世詳細は「キエフ大公国」、「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」、および「モンゴルのルーシ侵攻」を参照ヴォロディーミル聖公の洗礼

8世紀頃、ウクライナではルーシという国が誕生し、東スラヴ人のポリャーネ族の町キエフはその首都となった[34]882年オレグ公(882年 - 912年)が率いる北欧ヴァイキングがキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系のリューリク大公朝のものとなった[34]。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシをキエフ・ルーシ、あるいはキエフ大公国と呼ぶ[34]オリハ大公女945年 - 965年)、その子息スヴャトスラウ大公965年 - 972年)、孫ヴォロディーミル大公980年 - 1015年)、および曾孫ヤロスラウ大公(1019年 - 1054年)の治世はルーシの全盛期となった[34]


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