20世紀に入り、ウクライナ・コサックは再び歴史の表舞台に立った。1917年にウクライナ中央ラーダがウクライナの政府として成立すると、ウクライナ・コサックの代表者も政府に参加し、また軍事部門も一部でウクライナ・コサック部隊が担った。パウロー・スコロパードシクィイやシモン・ペトリューラらに率いられたウクライナ・コサック部隊は、ボリシェヴィキとのウクライナ・ソヴィエト戦争において主要な役割を果たした。かつてのヘーチマンの縁者であるスコロパードシクィイは、1918年4月末にヘーチマンの政変と呼ばれるクーデターを起こし、「ヘーチマン」に選出されて新政権を打ち立てた。しかし、ウクライナの独立勢力はロシアのボリシェヴィキに敗れ、ウクライナ・コサックはまたもや辛酸を嘗める結果となった。1932年から1933年にかけては、ソヴィエト政府によって内戦期に反ソヴィエト勢力が根強かったウクライナや南ロシアを中心にホロドモールが起こされ、多くのウクライナ系住民(ウクライナ・コサックの子孫)がその犠牲となった。1939年にカルパート・ウクライナが成立した際にも、コサックに範をとったカルパート・シーチが開設された。第二次世界大戦ではウクライナ蜂起軍によって反ソ連・反ポーランド運動が盛んに行われたが、その際にもかつてのようにウクライナ・コサック色が前面に出されることがあった。
ソ連時代には、アニメーションや映画など文芸部門でウクライナ・コサックはしばしば取り上げられ、ウクライナ共和国国民から愛されるキャラクターとなっていった。ウクライナ独立後もその傾向は強まり、多くのウクライナ人にとってウクライナ・コサックのイメージは大切なものとなっている。
速水螺旋人は現代ウクライナ人の基本価値観について、ウクライナ・コサックに由来する「自由」と「民主」だと述べている[2]。
軍事ペレヤスラウ=フメリニツキーに保存される17?18世紀のウクライナ・コサックの要塞
一般に、コサックはタタール人やトルコ人などの襲撃から国を守る役割を果たしたと言われる。逆にタタール国家(クリミア・ハン国)やオスマン帝国に定期的に侵入して略奪も行った。リトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国、モスクワ大公国、ロシア帝国といった、ウクライナを領した国は平時にはコサックを主として南部国境地帯の守りにつかせていた。
ウクライナ・コサックの軍隊の中心となったのは、対タタール戦を重視した軽武装の騎兵隊であった。ザポロージエ・コサックでは、シーチ銃兵隊が軍の中核をなした。
16?18世紀、ウクライナ・コサックは何種類にも分類され、まずヘーチマンが指揮する軍があり、次にザポロージャの軍(シーチ銃兵隊)があり、地域ごとのコサック連隊(スームィ、ハルキウ、オクチィルおよびオストログ)が多数存在した。さらにウクライナ右岸(ポーランド・リトアニア共和国に所属)のコサック部隊(クリーニ)があった。
ヘーチマンが指揮する軍隊は主にキエフ、ムィールホロド、プルィルークィ、ペレヤスラウ、ニズヒュン、ハドヤッチ、ルブヤン、スタロドゥーブ、チェルニーヒウの登録コサックの連隊で構成され、さらに傭兵連隊もあった。各連隊の兵力は一定ではなく(400名から700名)、連隊は百人単位で分割され、百人を支配する長とスタルシナー(長老、そのスタッフはオサヴール1名、オボズヌィイ1名、コルネット奏者1名など)による指揮を受けた。100人はいつかのクリーニを構成し、各クリーニはクリーニの長が指揮を取った。コサックは、えん月刀、マスケット銃、ピストル、弓、ダガー、棍棒、6つの刃の付いた棍棒など、さまざまな武器で武装していた。彼らは東方の武器とヨーロッパの武器の両方を使ったが、通常、鎧は着用しなかった。そのため、軽騎兵で構成されたタタール軍相手の戦闘では互角の戦闘を行えたが、西欧列強の重歩兵部隊との戦闘が増えるようになると、次第にその存在意義は薄れていった。このことが、ロシア帝国下でのウクライナにおけるコサック不要論のひとつの根拠となった。 ウクライナ・コサックの存在は、その伝統が廃れたのちもウクライナ人の心の拠り所となった。多くの文学作品や詩などで積極的にウクライナ・コサックが題材にされ、それは帝政・ソ連時代を通じて続いた。また、軽乗用車ザポロージェツィのように商品でもウクライナ・コサックのイメージが利用された。 また、ウクライナが独立を目指す時代にはウクライナ・コサックのイメージが必ずといってよいほど用いられた。ロシア革命後のウクライナ内戦
後年への影響