第二次世界大戦後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、ウガンダ保護領
内で最も有力な地域であるブガンダ王国は連邦制を強く主張し、保護領内に残存する諸王国もそれに賛同して、王国を持たない諸地域の支持する単一国家制と激しく対立し、独立への動きはやや遅れた。やがて1961年には建国されるべき新国家においてブガンダに連邦の地位を、その他諸王国に関しては半連邦の地位を認めることでこの問題はやっと終息した。独立時には北部や東部を地盤とするウガンダ人民会議、南部のカトリック教徒を中心とする民主党、そしてブガンダの保守派に強く支持される王党派のカバカ・イェッカの3大政党がしのぎを削り、結局ウガンダ人民会議とカバカ・イェッカの連立内閣が成立してウガンダ人民会議のミルトン・オボテが首相に就任し、1962年10月9日に英連邦王国の一員として独立した。翌1963年10月8日にイギリス総督に代わってブガンダのムテサ2世が大統領に就任し共和制へ移行した[6]。 ウガンダは独立したものの、諸王国、とくにブガンダ王国が国内で大きな権力を持っていることで中央政府とブガンダ政府との間で不協和音が生じ始めた。1966年、首相のウガンダ人民会議のミルトン・オボテは憲法を停止して連邦制を廃止し、これに反対した大統領兼ブガンダ国王ムテサ2世を排除して一党制を敷き、社会主義路線を掲げた。 1971年1月に軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握、独裁政治を敷いた。アミンは恐怖政治を行い、経済を握っていたインド人を追放することで国家経済は破綻し、社会的にも大混乱が起きた。1978年にウガンダ軍はタンザニアに侵攻しウガンダ・タンザニア戦争が勃発したが、逆にタンザニア軍に反攻され、1979年には反体制派のウガンダ民族解放軍 アミン失脚後暫定政権のトップに立ったユスフ・ルレは間もなく失脚し、次いで大統領となったゴッドフリー・ビナイサもクーデターで失脚した。政権を握った軍はすぐに選挙を実施し、1980年には選挙で勝利したオボテが大統領に復帰した。しかしオボテ政権は安定せず、1981年にはヨウェリ・ムセベニが国民抵抗運動を率いて蜂起し、ウガンダ内戦
オボテ政権(第1次)
アミン政権
オボテ政権(第2次)
ムセベニ政権LRAによる反乱の影響を受けた地域(2002年以降)
政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人のアリス・アウマが聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、1987年にウガンダ政府軍に敗北してアウマはケニアに亡命し、ジョゼフ・コニー率いる神の抵抗軍 (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。
1996年、コンゴ東部でローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) が蜂起すると、ムセベニはルワンダのポール・カガメとともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLはザイールの首都キンシャサを掌握、カビラは大統領に就任した。しかし権力を握ったカビラはAFDLの主力であったバニャムレンゲを遠ざけるようになり、バニャムレンゲはコンゴ民主連合を結成して今度はカビラ政権に対して1998年に反乱を起こし、第二次コンゴ戦争が勃発した。ウガンダとルワンダはコンゴ民主連合に軍事支援を行い、さらに直接コンゴ東部に出兵して一部地域を占領した。2002年にウガンダ軍はコンゴ東部から撤兵したが、この紛争はウガンダの対外関係を大きく悪化させることとなった[8]。
2006年8月12日、ウガンダ政府と反政府武装組織「神の抵抗軍」 (LRA) との和平交渉は(en:2006?2008 Juba talks)、双方の戦闘行為停止に関する合意が出来ないまま14日まで休会されることになった。26日、3週間以内にスーダン南部に設けられる2か所のキャンプに集結し、戦闘と敵対的宣伝の停止において合意した。
2007年8月3日、アルバート湖(ホイマ県タロー石油)で石油探査中ヘリテージ・オイル社がコンゴと交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。ヘリテージ・オイルは民間軍事会社のエグゼクティブ・アウトカムズで共同経営者だったトニー・バッキンガム(英語版)の設立した紛争地帯専門の石油会社である。