ウガンダ
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総計(2020年45,741,000[2]人(32位
人口密度228.9[2]人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2020年)143兆9040億[3]ウガンダ・シリング

GDP(MER
合計(2020年)381億4100万[3]ドル(92位
1人あたり925.264(推計)[3]ドル

GDP(PPP
合計(2020年)1068億2500万[3]ドル(88位
1人あたり2591.443(推計)[3]ドル

独立
 - 日付イギリスより
1962年10月9日
通貨ウガンダ・シリングUGX
時間帯UTC+3 (DST:なし)
ISO 3166-1UG / UGA
ccTLD.ug
国際電話番号256 1
註1: ケニアとタンザニアから掛ける場合は、006

ウガンダ共和国(ウガンダきょうわこく、英語: Republic of Uganda、スワヒリ語: Jamhuri ya Uganda)、通称ウガンダは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ

ナイル川(白ナイル)の始まるヴィクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。国獣はウガンダ・コーブ、国鳥はホオジロカンムリヅルであり、国旗国章にも採用されている。コーブはウガンダの豊かな野生動物、ホオジロカンムリヅルは進歩を象徴するものとされる[4]ホオジロカンムリヅル
国名

スワヒリ語での正式名称は、Jamhuri ya Uganda(ジャムフリ・ヤ・ウガンダ)、英語での正式名称は、Republic of Uganda(リパブリック・オヴ・ウガンダ或はユガンダ)。通称、Uganda。

日本語の表記は、ウガンダ共和国。通称、ウガンダ。

「ウガンダ」の名はブガンダ王国のスワヒリ語名称にちなむ。
歴史詳細は「ウガンダの歴史(英語版)」および「初期ウガンダの歴史(英語版)」を参照
植民地以前詳細は「バントゥー拡張(英語版)」を参照

16世紀初頭、ブニョロブガンダアンコーレルワンダブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立した。17世紀中ごろ、ウガンダ西部に位置するブニョロ王国が最盛期を迎えたが、19世紀に入るとやや勢力が衰えを見せ、1830年代には南部地方がトロ王国として独立した。19世紀になるとブガンダ王国がブニョロに代わってこの地域の覇権を握り、ブニョロと抗争を繰り返した。
植民地時代

19世紀末になるとヨーロッパ諸国の宣教団がこの地域に入り、盛んに布教を行う一方、ドイツイギリスの間でこの地域の領有をめぐり競争が起こった。この競争は1890年7月1日ヘルゴランド=ザンジバル条約締結によってイギリスの勢力範囲となることで決着し、1894年にはウガンダ王国を保護領化することでイギリス領ウガンダ植民地(英語版)が成立した。イギリスはさらにブニョロ、アンコーレ、トロなどの諸王国や周辺各地を保護領に統合したが、保護領の統治は間接統治を旨としたため諸王国の統治体制は維持された。なかでも保護領の中心的存在であるブガンダ王国の影響力は大きく、以後の保護領統治に大きな影響を与え続けた。1901年にはウガンダ鉄道がインド洋からヴィクトリア湖畔にあるケニアのキスムにまで到達し、湖の汽船との連絡で海外貿易ルートが大きく改善されたため、綿花が導入されて盛んに栽培されるようになり、1970年ごろまでウガンダの主要輸出品となった。1931年にはウガンダ鉄道の本線がキスムからカンパラまで延長されたが、敷設に英領インド人が投入されたことにより、インド系の移民がその後も増えていった[5]
独立

第二次世界大戦後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、ウガンダ保護領内で最も有力な地域であるブガンダ王国は連邦制を強く主張し、保護領内に残存する諸王国もそれに賛同して、王国を持たない諸地域の支持する単一国家制と激しく対立し、独立への動きはやや遅れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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