ウガンダ
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国民抵抗運動が徐々に勢力範囲を広げていく中、1985年にはティト・オケロがクーデターを起こしてオボテを追放し政権を握ったものの、国民抵抗運動の総攻撃によって1986年にカンパラが陥落、ムセベニが大統領に就任した[7]
ムセベニ政権LRAによる反乱の影響を受けた地域(2002年以降)

政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人のアリス・アウマが聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、1987年にウガンダ政府軍に敗北してアウマはケニアに亡命し、ジョゼフ・コニー率いる神の抵抗軍 (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。

1996年、コンゴ東部でローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) が蜂起すると、ムセベニはルワンダポール・カガメとともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLはザイールの首都キンシャサを掌握、カビラは大統領に就任した。しかし権力を握ったカビラはAFDLの主力であったバニャムレンゲを遠ざけるようになり、バニャムレンゲはコンゴ民主連合を結成して今度はカビラ政権に対して1998年に反乱を起こし、第二次コンゴ戦争が勃発した。ウガンダとルワンダはコンゴ民主連合に軍事支援を行い、さらに直接コンゴ東部に出兵して一部地域を占領した。2002年にウガンダ軍はコンゴ東部から撤兵したが、この紛争はウガンダの対外関係を大きく悪化させることとなった[8]

2006年8月12日、ウガンダ政府と反政府武装組織「神の抵抗軍」 (LRA) との和平交渉は(en:2006?2008 Juba talks)、双方の戦闘行為停止に関する合意が出来ないまま14日まで休会されることになった。26日、3週間以内にスーダン南部に設けられる2か所のキャンプに集結し、戦闘と敵対的宣伝の停止において合意した。

2007年8月3日アルバート湖ホイマ県タロー石油)で石油探査中ヘリテージ・オイル社がコンゴと交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。ヘリテージ・オイルは民間軍事会社エグゼクティブ・アウトカムズで共同経営者だったトニー・バッキンガム(英語版)の設立した紛争地帯専門の石油会社である。2007年11月29日、ウガンダでエボラ出血熱が発生し、51人が感染し、16人が死亡した。新種のエボラウイルスである。

2008年12月14日から2009年3月15日まで、ウガンダと南スーダン自治政府、コンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍に対するガランバ攻勢(英語版)が行われた。

2010年7月11日、ウガンダの首都カンパラでソマリアの反政府軍勢力アル・シャバブ(犯行声明を出した)による同時自爆テロが起き、W杯観戦中の73人が死亡した。政府は16日、現在ソマリアにアフリカ連合 (AU) ソマリア派遣団 (AMISOM) ウガンダ部隊2500人に2000人増派する方針を明らかにした。これに対し従来から派兵を批判してきた野党は、「軍事冒険主義が恐ろしい結末を招いた」と批判を強めている。
政治第7代大統領ヨウェリ・ムセベニ詳細は「ウガンダの政治(英語版)」および「ウガンダの憲法(英語版)」を参照

ウガンダは1995年10月に発効した憲法に基づき統治されている。国家元首大統領で、国民の直接選挙で選出され任期は5年。大統領は首相閣僚任免権など強大な権力が保障されている。

かつては国民抵抗運動 (National Resistance Movement)  (NRM) が1986年以降無党制を導入していたため、他にウガンダ人民会議、ウガンダ愛国運動 (Uganda Patriotic Movement) (解散)、保守党などの政党が存在するものの、NRM以外の政治活動は禁止されていた。ウガンダ議会選挙への立候補も特定の党員資格を持つ者は許されず、個人資格のみ許可されていたが、しかし個人資格といってもNRMの選挙機関「ムーブメント」の組織的支援を受けた者しか、事実上当選しない仕組みとなっていた。しかしこの体制には不満も多く、これを受けて複数政党制の導入をめぐる国民投票が2000年6月に実施されたが、野党のボイコットにより一党制が「圧倒的支持」を受けた。しかしその後も不満が多いことを見て取った国民抵抗運動は2005年7月に再度国民投票を行い、複数政党制が支持されたため、2006年の選挙以降は登録された政党が公的に活動し、選挙に候補者を送ることができるようになった[9]

また、ウガンダ自体は共和制であるが、ウガンダ国内にトロブニョロブガンダブソガアンコーレの伝統的な地方王国が存在している。これらは1967年に一度廃止されたものが1990年代に復活したものであり、各王国の国王は「文化的指導者」と位置づけられ、政治的な力を持たない儀礼的な存在である。しかしながら、廃止以前に最も有力だったブガンダ王国ではいまだに自治や連邦制の復活要求が絶えず、南西部のアンコーレ王国は階級対立によって王国自体の復活ができず、ブソガ王国では王の選出方法で対立が生じるなど、様々な問題も起きている[10]

地方行政は、地方評議会 (LC) 制度によって行われている。


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