ウガンダ共和国(ウガンダきょうわこく、英語: Republic of Uganda、スワヒリ語: Jamhuri ya Uganda)、通称ウガンダは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ。
ナイル川(白ナイル)の始まるヴィクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。国獣はウガンダ・コーブ、国鳥はホオジロカンムリヅルであり、国旗や国章にも採用されている。コーブはウガンダの豊かな野生動物、ホオジロカンムリヅルは進歩を象徴するものとされる[4]。ホオジロカンムリヅル スワヒリ語での正式名称は、Jamhuri ya Uganda(ジャムフリ・ヤ・ウガンダ)、英語での正式名称は、Republic of Uganda(リパブリック・オヴ・ウガンダ或はユガンダ)。通称、Uganda。 日本語の表記は、ウガンダ共和国。通称、ウガンダ。 「ウガンダ」の名はブガンダ王国のスワヒリ語名称にちなむ。
国名
歴史詳細は「ウガンダの歴史(英語版
植民地以前詳細は「バントゥー拡張(英語版)」を参照
16世紀初頭、ブニョロ、ブガンダ、アンコーレ、ルワンダ、ブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立した。17世紀中ごろ、ウガンダ西部に位置するブニョロ王国が最盛期を迎えたが、19世紀に入るとやや勢力が衰えを見せ、1830年代には南部地方がトロ王国として独立した。19世紀になるとブガンダ王国がブニョロに代わってこの地域の覇権を握り、ブニョロと抗争を繰り返した。 19世紀末になるとヨーロッパ諸国の宣教団がこの地域に入り、盛んに布教を行う一方、ドイツとイギリスの間でこの地域の領有をめぐり競争が起こった。この競争は1890年7月1日、ヘルゴランド=ザンジバル条約締結によってイギリスの勢力範囲となることで決着し、1894年にはウガンダ王国を保護領化することでイギリス領ウガンダ植民地 第二次世界大戦後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、ウガンダ保護領
植民地時代
独立
翌1963年10月8日にイギリス総督に代わってブガンダのムテサ2世が大統領に就任し共和制へ移行した[6]。 ウガンダは独立したものの、諸王国、とくにブガンダ王国が国内で大きな権力を持っていることで中央政府とブガンダ政府との間で不協和音が生じ始めた。1966年、首相のウガンダ人民会議のミルトン・オボテは憲法を停止して連邦制を廃止し、これに反対した大統領兼ブガンダ国王ムテサ2世を排除して一党制を敷き、社会主義路線を掲げた。 1971年1月に軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握、独裁政治を敷いた。アミンは恐怖政治を行い、経済を握っていたインド人を追放することで国家経済は破綻し、社会的にも大混乱が起きた。1978年にウガンダ軍はタンザニアに侵攻しウガンダ・タンザニア戦争が勃発したが、逆にタンザニア軍に反攻され、1979年には反体制派のウガンダ民族解放軍 アミン失脚後暫定政権のトップに立ったユスフ・ルレは間もなく失脚し、次いで大統領となったゴッドフリー・ビナイサもクーデターで失脚した。政権を握った軍はすぐに選挙を実施し、1980年には選挙で勝利したオボテが大統領に復帰した。しかしオボテ政権は安定せず、1981年にはヨウェリ・ムセベニが国民抵抗運動を率いて蜂起し、ウガンダ内戦
オボテ政権(第1次)
アミン政権
オボテ政権(第2次)
ムセベニ政権LRAによる反乱の影響を受けた地域(2002年以降)
政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人のアリス・アウマが聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、1987年にウガンダ政府軍に敗北してアウマはケニアに亡命し、ジョゼフ・コニー率いる神の抵抗軍 (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。
1996年、コンゴ東部でローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) が蜂起すると、ムセベニはルワンダのポール・カガメとともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLはザイールの首都キンシャサを掌握、カビラは大統領に就任した。