ウガンダ
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1人あたり925.264(推計)[3]ドル

GDP(PPP
合計(2020年)1068億2500万[3]ドル(88位
1人あたり2591.443(推計)[3]ドル

独立
 - 日付イギリスより
1962年10月9日
通貨ウガンダ・シリングUGX
時間帯UTC+3 (DST:なし)
ISO 3166-1UG / UGA
ccTLD.ug
国際電話番号256 1
註1: ケニアとタンザニアから掛ける場合は、006

ウガンダ共和国(ウガンダきょうわこく、英語: Republic of Uganda、スワヒリ語: Jamhuri ya Uganda)、通称ウガンダは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ

ナイル川(白ナイル)の始まるヴィクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。国獣はウガンダ・コーブ、国鳥はホオジロカンムリヅルであり、国旗国章にも採用されている。コーブはウガンダの豊かな野生動物、ホオジロカンムリヅルは進歩を象徴するものとされる[4]ホオジロカンムリヅル
国名

スワヒリ語での正式名称は、Jamhuri ya Uganda(ジャムフリ・ヤ・ウガンダ)、英語での正式名称は、Republic of Uganda(リパブリック・オヴ・ウガンダ或はユガンダ)。通称、Uganda。

日本語の表記は、ウガンダ共和国。通称、ウガンダ。

「ウガンダ」の名はブガンダ王国のスワヒリ語名称にちなむ。
歴史詳細は「ウガンダの歴史(英語版)」および「初期ウガンダの歴史(英語版)」を参照
植民地以前詳細は「バントゥー拡張(英語版)」を参照

16世紀初頭、ブニョロブガンダアンコーレルワンダブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立した。17世紀中ごろ、ウガンダ西部に位置するブニョロ王国が最盛期を迎えたが、19世紀に入るとやや勢力が衰えを見せ、1830年代には南部地方がトロ王国として独立した。19世紀になるとブガンダ王国がブニョロに代わってこの地域の覇権を握り、ブニョロと抗争を繰り返した。
植民地時代

19世紀末になるとヨーロッパ諸国の宣教団がこの地域に入り、盛んに布教を行う一方、ドイツイギリスの間でこの地域の領有をめぐり競争が起こった。この競争は1890年7月1日ヘルゴランド=ザンジバル条約締結によってイギリスの勢力範囲となることで決着し、1894年にはウガンダ王国を保護領化することでイギリス領ウガンダ植民地(英語版)が成立した。イギリスはさらにブニョロ、アンコーレ、トロなどの諸王国や周辺各地を保護領に統合したが、保護領の統治は間接統治を旨としたため諸王国の統治体制は維持された。なかでも保護領の中心的存在であるブガンダ王国の影響力は大きく、以後の保護領統治に大きな影響を与え続けた。1901年にはウガンダ鉄道がインド洋からヴィクトリア湖畔にあるケニアのキスムにまで到達し、湖の汽船との連絡で海外貿易ルートが大きく改善されたため、綿花が導入されて盛んに栽培されるようになり、1970年ごろまでウガンダの主要輸出品となった。1931年にはウガンダ鉄道の本線がキスムからカンパラまで延長されたが、敷設に英領インド人が投入されたことにより、インド系の移民がその後も増えていった[5]
独立

第二次世界大戦後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、ウガンダ保護領内で最も有力な地域であるブガンダ王国は連邦制を強く主張し、保護領内に残存する諸王国もそれに賛同して、王国を持たない諸地域の支持する単一国家制と激しく対立し、独立への動きはやや遅れた。やがて1961年には建国されるべき新国家においてブガンダに連邦の地位を、その他諸王国に関しては半連邦の地位を認めることでこの問題はやっと終息した。独立時には北部や東部を地盤とするウガンダ人民会議、南部のカトリック教徒を中心とする民主党、そしてブガンダの保守派に強く支持される王党派のカバカ・イェッカの3大政党がしのぎを削り、結局ウガンダ人民会議とカバカ・イェッカの連立内閣が成立してウガンダ人民会議ミルトン・オボテが首相に就任し、1962年10月9日英連邦王国の一員として独立した。

1963年10月8日にイギリス総督に代わってブガンダのムテサ2世が大統領に就任し共和制へ移行した[6]
オボテ政権(第1次)

ウガンダは独立したものの、諸王国、とくにブガンダ王国が国内で大きな権力を持っていることで中央政府とブガンダ政府との間で不協和音が生じ始めた。1966年、首相のウガンダ人民会議ミルトン・オボテは憲法を停止して連邦制を廃止し、これに反対した大統領兼ブガンダ国王ムテサ2世を排除して一党制を敷き、社会主義路線を掲げた。
アミン政権

1971年1月に軍司令官イディ・アミンクーデター政権を掌握、独裁政治を敷いた。アミンは恐怖政治を行い、経済を握っていたインド人を追放することで国家経済は破綻し、社会的にも大混乱が起きた。1978年にウガンダ軍はタンザニアに侵攻しウガンダ・タンザニア戦争が勃発したが、逆にタンザニア軍に反攻され、1979年には反体制派のウガンダ民族解放軍(英語版) (UNLA) とタンザニア軍の連合軍に首都のカンパラまで攻め込まれ、アミンは失脚してサウジアラビア亡命した。
オボテ政権(第2次)

アミン失脚後暫定政権のトップに立ったユスフ・ルレは間もなく失脚し、次いで大統領となったゴッドフリー・ビナイサもクーデターで失脚した。政権を握った軍はすぐに選挙を実施し、1980年には選挙で勝利したオボテが大統領に復帰した。しかしオボテ政権は安定せず、1981年にはヨウェリ・ムセベニが国民抵抗運動を率いて蜂起し、ウガンダ内戦(英語版)(1981年 - 1986年)が始まった。国民抵抗運動が徐々に勢力範囲を広げていく中、1985年にはティト・オケロがクーデターを起こしてオボテを追放し政権を握ったものの、国民抵抗運動の総攻撃によって1986年にカンパラが陥落、ムセベニが大統領に就任した[7]
ムセベニ政権LRAによる反乱の影響を受けた地域(2002年以降)

政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人のアリス・アウマが聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、1987年にウガンダ政府軍に敗北してアウマはケニアに亡命し、ジョゼフ・コニー率いる神の抵抗軍 (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。

1996年、コンゴ東部でローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) が蜂起すると、ムセベニはルワンダポール・カガメとともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLはザイールの首都キンシャサを掌握、カビラは大統領に就任した。


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