ウォーレン・ベイティ
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1981年レッズ

備考
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
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ウォーレン・ベイティ(Warren Beatty, 本名: Henry Warren Beaty, 1937年3月30日 - )は、アメリカ合衆国バージニア州リッチモンド出身の映画監督俳優舞台俳優演出家作家脚本家でもあり、ヘンリー・W・ベイティの名前でピアニストとしても活躍。映画プロデューサーとしても、数々のヒット作を送り出した。

長らくウォーレン・ビーティーと呼ばれてきたが、1990年『ディック・トレイシー』が公開された時に、本人からの要望で日本の配給会社が、より発音に近いウォーレン・ベイティと呼び方を変更した。ただし、ウォーレン・ビーティー時代の作品の印象が強いため、いまだにビーティーと呼ばれることが多い。日本語では「ビーティ」「ベーティ」とも表記されることがあるが、本人によると正しい発音は「ベイティ」に近いらしく、綴りにtを1つ増やしたのもビーティなどと呼ばれることを避けるためという[1]
来歴

名門の芸能一家で育った。父は音楽家、母も舞台女優であり、姉に女優のシャーリー・マクレーンがいる。幼少期より演劇に親しみ、演劇の他、歌や踊り、楽器などを教えられた。

ベイティはアーリントンのワシントン・リバティー高校(Washington-Liberty High School)ではアメリカンフットボールのスター選手だった。ノースウェスタン大学に通いシグマカイ(Sigma Chi)のメンバーとなる[2][3]

ニューヨークに渡りステラ・アドラーに師事。その後、舞台俳優としてキャリアを積む。1950年代にはテレビにも出演をはじめた。

1959年、ブロードウェイからテレビ、映画に本格的に進出。1961年の『草原の輝き』で、名家に生まれ育ちながらも奔放に生きる主人公を闊達と演じ華々しいデビューを飾った。やがて彼は、1967年の『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde)でスターの座を獲得した[4]。1960年代後半、すでにスターの座にあったベイティだが、キャリアの浮き沈みが激しかったことも事実だった。しかし、実在した犯罪者ボニーとクライドの最期を描いた『俺たちに明日はない』の脚本に心を動かされたベイティは自ら製作を志願。アーサー・ペンを監督に指名して、自らは主役を演じた。折りしも、アメリカン・ニューシネマ・ブームが起こった時代において、この作品は世界から賞賛を浴びる事になり、アカデミー賞にも多数の部門でノミネート。興行的にも大成功を収める。当時の配給会社は、興行成績が上がらないと予想していたため、製作と主演を務めたベイティに、興行収入の40%をギャラとして支払うという破格の契約を交わしていた。そのため、ベイティは一本の作品で一財産を築き上げることに成功した。

1970年代も、鬼才ロバート・アルトマン監督と組み、流れ者から寒村の町の名士になり、やがて没落する主人公ジョン・マケイブを描く西部劇大作『ギャンブラー』や、社会問題をテーマとした作品『パララックス・ビュー』など、異色の主演作品を発表した。一方で、脚本を兼ねたラブコメディ『シャンプー』や、初監督作品のファンタジードラマ『天国から来たチャンピオン』等を成功させるなど、演技のみに留まらぬ多才な手腕を発揮。これら2作品でアカデミー賞にも複数の部門でノミネートされた。

1981年、ロシア革命を克明に記録した『世界をゆるがした十日間』の著者ジョン・リードの生涯を描いた歴史大作『レッズ』で、アカデミー監督賞を受賞。実際にジョン・リードを知る在米有識者を取材、この時の回想コメントをドキュメンタリー式に劇中に織り込みながら、資本主義国家に戦いを挑む共産主義者の立場を詳細に描写。こうした画期的な手法を見せたほか、この作品では脚本、製作を兼ね、自らもリードになりきった演技を披露している。

かねて1970年代より政治的な発言が公式に増えたベイティだが、この作品を契機に完全な「リベラル派」(もしくは左派)として広く認知されてゆくことになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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