ウォレン・ハーディング
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少年時代はアレクサンダー・ハミルトンナポレオン・ボナパルトに憧れていた。母親は助産婦であったが後に医師免許を得た。父親はオハイオ州マウント・ギリアドで教鞭を執る教師であった。ハーディングが十代の時に一家はオハイオ州カレドニアに転居し、父親は地方週刊紙の「アルゴス」の経営権を得る。ハーディングは1865年11月2日にオハイオ・セントラル大学(後のマスキンガム大学)を卒業した。彼は学生時代に新聞の出版と運営を学んだ。

ハーディングは大学卒業後にオハイオ州マリオンに移り住み、2人の友人と共に300ドルを集め、経営失敗した「マリオン・デイリー・スター」紙を買収した。同紙はマリオンで出版されていた3紙の中で唯一の日刊紙であり、最も売れ行きが悪かった。ハーディングは同紙の政治姿勢を共和党支援であることを明確にし、ある程度の成功を得た。しかしながらそれはマリオンの有力者達の政治姿勢とは対立するものであった。ハーディングが「マリオン・インディペンデント」紙の買収に乗り出すと、その行動はマリオンの資産家の一人であったエイモス・ホール・クリングの激怒を買った。

ハーディングは「マリオン・デイリー・スター」紙を郡内でも最大の新聞に育て上げたが、その激務は彼の健康に影響を与えた。1889年、ハーディングは24歳の時にノイローゼになり、療養地のミシガン州バトルクリークで数週間を過ごした。健康が回復するとマリオンで仕事に戻り、彼は毎夜友人達とポーカーに興じながら「bloviating」(ハーディングは友人達の雑談をこのように言った)して、新聞の社説世論を押し上げた。

1891年7月8日にハーディングはフローレンス「フロージー」メイベル・クリング・デウォルフェと結婚した。彼女は30歳で離婚歴があり、1人の息子がいた。彼女はハーディングが不承不承に結婚を受けるまで固執して追い続けた。フローレンスの父親エイモス・ホール・クリングは前述のように「マリオン・インディペンデント」紙の買収に関してハーディングと対立しており、「黒い血のハーディング・ファミリー」との結婚に反対し、娘と絶縁した。 クリングは義理の息子となったハーディングと8年間会話をしなかった。

フロージーの経営管理術は、ハーディングの新聞社の金銭的成功に貢献したが、結婚生活は不幸であった。ハーディングは彼女をひどく扱い、ポーカー仲間や他の女性に注意を集中した。そのため、サンフランシスコ遊説中に滞在したホテルの一室で急死したハーディングに対し、今日でも夫人による殺説が広く信じられている。子孫の血統は途絶えている。
大統領就任前

ハーディングは、オハイオ州議会議員 (1899-1903)、オハイオ州副知事 (1903-1905) 及び連邦上院議員 (1915-1921) を務めた。そして1921年、好調な景気の流れに乗り、大統領に就任した。
州議会議員

ハーディングは政界への進出をマリオン郡監査役への立候補で果たしたが、それは単なる政治的露出で終わることとなった。彼が選挙に敗北したことは、同郡における民主党勢力からして必然的結果であった[8]。彼の新聞がマリオンにおいて十分な力を得、支配的な存在となったとき、ハーディングは妻と共に国中を旅行し、それによって彼は(党員集会など)政治的集会における露出を重ねることとなった。伝記作家のアンドルー・シンクレアは、共和党のボスであるマーク・ハンナが牛耳るオハイオの同時代人と同様に、ハーディングも汚職利権に関わったと断言する[9]。ハーディングは自らの新聞でハンナに対する好意的な報道を行い、その返礼としてハンナはハーディングの家族に無料の公共輸送パスを提供したとされる[9]。ハーディングは1897年には彼の妹を盲学校の教師とするため、よりふさわしい候補がいたにも拘わらず、便宜を図って貰ったとされる。彼はまた、公共印刷の入札において他の新聞社と談合を行い、利益を分配したとして告発された。しかしながらこれらの告発に対して正式な起訴は行われなかった。

ハーディングは演説の才能を磨き、1899年の州議会議員選挙では義理の父親であるエイモス・クリングが対立候補に選挙資金を融資したにも拘わらず、第13選挙区からオハイオ州上院議員に選出された[10]。この勝利の直後にハーディングはオハイオ州の共和党リーダーであり、マッキンリー大統領の盟友であったハリー・M・ドーハティと偶然に会話する。ドーハティは「なんとまあ、彼は見事な大統領となるだろうよ」と語った。ドーハティは後にハーディングの政治経歴における重要な役割を引き受けることとなる[11]

ハーディングは共和党の州上院議員として党派心が強く、政治上のボスであるハンナとドーハティを熱心に支援した。

1909年、ハーディングは共和党のオハイオ州知事候補指名のための運動を始めた。彼は共和党大会で指名を勝ち取ったが、党内の進歩主義派と保守派の分裂によって、民主党の現職ジャドソン・ハーモンに敗れた。
連邦上院議員

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政治

大統領としてハーディングは所得税の累進性を弱め富裕層への大規模な減税を実施した。また、貿易では保護貿易政策を取り、現在では考えられない程の高率な関税をかけた。予算会計法を成立させ、今日の年度予算案の審議システムをつくった。

外交では、1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけてワシントン会議を開き、「国際規模の軍縮」を口実に日本の海軍戦力の制限、および日英同盟の破棄を行い、日本の台頭を防いだ。また、この会議で九カ国条約で中国に対する門戸開放政策を列強に認めさせ、極東におけるアメリカの覇権を確立する狙いもあった。また、1921年(大正10年)には、当時日本の支配下にあった朝鮮の独立運動家である徐載弼と会見し、朝鮮独立の後押しの要請を受けるなどした[12]
内閣1921年ごろ

職名氏名任期
大統領ウォレン・G・ハーディング1921年 - 1923年


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