1953年2月、ディズニーの次のアニメーション映画『ピーター・パン』は興行成績は上々だったが、ウォルトはコストを上げずにアニメーションの水準を向上させたいと考えていた[124]。ディズニーが『自然と冒険の記録映画』のために、長編『砂漠は生きている』と短編で2本立てで公開しようとしたとき、RKOの弁護士は、この映画を上映すれば1948年の独占禁止法に関する最高裁判所の判決を破ることになると考えた。ロイはRKOがなくても会社は発展すると考え、ディズニーはスタジオがあった通りにちなんで独自の配給会社ブエナ・ビスタ・ディストリビューションという配給会社を設立した[125]。1954年、『海底二万哩』が公開された。これはディズニー初のシネマスコープの実写映画である[126][127]。1950年代前半から半ばにかけて、ウォルトはアニメーション部門にあまり目を向けなくなり、主要なアニメーターであるナイン・オールド・メンにほとんどの現場を任せるようになった。その代わり、彼はテレビ、ディズニーランド、その他の会社の事業に集中するようになった[128]。(左から)1,000万人以上の子供たちが毎日見ることになった『ミッキーマウス・クラブ』の出演者と、クロケット・キャップが1,000万個、テーマソングのレコードが1,000万枚以上売れた同名の番組でデイビー・クロケット役を演じたフェス・パーカー。
ディズニーランドの建設資金を調達するため、ウォルトはカリフォルニア州パームスプリングスのスモークツリー牧場にあった自宅を売却し、会社はテレビシリーズでディズニーランドを宣伝した。NBCやCBSとの契約交渉が不調に終わった後、1954年、ABC(American Broadcasting Company)はディズニーと契約を結び、10月から毎週1時間のシリーズ「ディズニーランド」を放送することになった。ディズニーランドは、アニメ、実写、その他スタジオのライブラリーから構成されたアンソロジーシリーズで、テーマパークの4つのエリアを描いたものだった[129] 。このシリーズは高視聴率を収め、同時間帯の 視聴率50%以上を獲得し、視聴者の増加と批評家からの賞賛を得た[130]。8月、ウォルトはテーマパークの資金調達のためにディズニーランド・インクを設立し、ウォルト・ディズニー・プロダクション、ウォルト、20年以上にわたってディズニーの本を出版してきたウェスタン・パブリッシング、ABCの3社がこの会社の株式を保有することになった[131]。