ウォルター・ランツ
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ノーランはパノラマ背景の発明や、新しく合理化されたフィリックス・ザ・キャットを制作し、アメリカのアニメーションの基礎となった「Rubber hose animation」(腕、場合によっては脚を単純で流れるような曲線かつ関節がないように描くスタイル)を手がけたことで知られている。後に雇ったスタッフとしてはピント・コルヴィッグフレッド・アヴェリーがいる。

1929年9月1日、ランツたちの最初の作品である「Race Riot」が公開された。初期のランツのカートゥーンはディズニーやウィンクラー・スタジオの特徴を受け継いだ筋やストーリを基礎に制作する方法がとられた。オズワルドのカートゥーンをミュージカルに変換することは別の問題だったが、1930年中頃にランツとそのスタッフは目標に達した。残念ながら、その過程でオズワルトの人格は一貫性を失った。彼は特定のギャグに適合させるために徹底的に変化した。スタジオの音楽監督もデビッド・ブロークマンからポール・ホワイトマン(英語版)オーケストラのメンバーのジェームス・ディートリッヒに交代した。ディートリッヒの加入により、1920年代のジャズ時代のサウンドがスタジオの作品の典型的な要素となった。なおディートリッヒは1937年までパラマウントの音楽監督でもあった。また、ランツとノーランはこのころ「Fanny the Mule」という13のカートゥーン作品に取りかかっていたが、結局公開されることはなかった。

1931年、ランツは経済的困難に直面し、人員削減、カートゥーンの上映時間の削減、一握りの初期のディズニーのオズワルドの音声を画像に重ねるといったことを強いられた。このほかの解決策は「Pooch the Pup」という犬を主人公にした新しいシリーズを制作することで注意を引いてもらうことだった。よってランツとノーランはスタジオの制作班を2つに分けることにした。ランツがPooch the Pupを、ノーランがオズワルドを制作した。どちらのシリーズも世界恐慌の苦境に言及していた。Pooch the Pupは人気のある作品にはならず1933年に終了した。1935年にはノーランがスタジオを去った。これによりランツはスタジオの単独経営者となった。またCartune Classicsというカラーのカートゥーンシリーズの制作が開始された。

なお、ランツは新作のオズワルド作品と並行して、ディズニー時代のオズワルド作品(Trolley Troubles、 Great Guns!、The Ocean Hopなど)を再公開していた。
ウォルター・ランツ・プロダクションズ
オズワルド時代の終焉、新たなキャラクター探し1939年のランツ

ユニバーサルのレムリ一族による家族経営は経済的困難のため1936年終わりを迎えた。そしてジョン・チーバー・カウディン(英語版)が新社長に就任した。経営者の変化を機に、ランツはユニバーサルから独立して自身のカートゥーン・スタジオを設立する許可を得る機会を得た。ユニバーサルはこれに同意し、1935年11月16日、ウォルター・ランツ・プロダクションズが誕生した。

この頃、オズワルドの人気は大いに低下しており、ランツはこれに変わる新しいキャラクターを探し始めた。ランツとそのスタッフが考案した「Meany, Miny, and Moe」(3匹のチンパンジー)、「Baby-Face Mouse」、「Snuffy Skunk」、「Doxie」(ダックスフント)、「Jock and Jill」(ワーナー・ブラザースのボスコ(英語版)に似た猿)は成功を収められなかったが、アンディ・パンダの最初の作品Life Begins for Andy Pandaは成功し、1938年の作品が最後の出演となったオズワルドの代わりとなった。この頃から、ランツは全ての作品をカラーで制作するようになった。この頃以降の作曲家としては、ジェームス・ディートリッヒ、ナット・シルクレット(ビクター・レコードのプロデューサー)、ハーマン=アイシング出身のフランク・マーサル、ダレル・カーカーがいる。ダレル・カーカーのアレンジは独特のスイングの趣で注目された。

1940年、スタジオは大きな問題を抱えていた。ユニバーサルは再び深刻な経営難に陥り、破産の可能性すらあった。そのため、ユニバーサルは毎週ウォルター・ランツ・プロダクションズに支払っていた前払い金をカットすると決定した。これにより、ランツは代替の資金源を奪い合い、少しの間スタジオを閉鎖しなければならなくなった。ランツはキャラクターたち(オズワルドを含む)の権利を得ることができた。アンディ・パンダのCrazy Houseはランツにとってユニバーサルから完全に独立した状態で作られた初めてのカートゥーンだった。ランツはこの作品を経営陣へ最後のアピールとして提示し、最終的には満足のいく合意に到達することができた。1940年秋、スタジオは業務を再開した。
ウッディー・ウッドペッカーの誕生ウッディー・ウッドペッカーとともに写る1990年のランツ。

1940年、ランツは女優グレース・スタッフォードと再婚した(最初の妻はドリス・ホリスターで、子供もいた)。同年、ウッディー・ウッドペッカーがアンディ・パンダの作品Knock Knockに初登場した。ランツ自身が語ったところによると、彼は新婚旅行中にアイデアを思いついたという。彼と妻はキツツキが絶え間なく宿の屋根をつついているのが聞こえた。グレースはこの鳥をカートゥーンキャラクターとして使うことを提案したという。少し懐疑的ではあるが、彼女のアドバイスにより、初期のダフィー・ダックに似たぶしつけなキツツキのキャラクターが作られたという。ウッディーはすぐに人気になり、1941年には自分のシリーズを持つようになった。

ウッディー・ウッドペッカーの声は彼がワーナーとの独占契約を結ぶまではメル・ブランクが演じた。その後はダニー・ウェッブ(2作品のみ)、ケント・ロジャース(英語版)、彼の第二次世界大戦による徴兵後はベン・ハーダウェイ(英語版)が演じたが、ウッディーの独特な笑い声は1951年までブランクのものが流用され続けた。

この頃人気だったもう一つのシリーズがScrub Me Mama with a Boogie Beat(現在では人種に関するステレオタイプであるという論争がある)、Boogie-Woogie Bugle Boyの成功で始まった「Swing Symphony」という音楽を題材にしたシリーズである。作品には有名なミュージシャンが出演していた。このシリーズはビッグ・バンドの時代が終わりを迎えていた1945年に終了した。

また、この頃はディズニーの白雪姫が成功を収めた時であり、ウォルター・ランツ・プロダクションズもAladdin and His Lamp(アラジンと魔法のランプ)という長編作品を作ろうとしていた。声優はコメディー・デュオアボットとコステロが出演する計画だった。しかし、バッタ君町に行くの失敗後、この作品は制作されることはなかった。数十年後、ランツは長編映画の制作を再び試みたが、実現しなかった。
スタジオの一時閉鎖から再開まで

1947年、ランツはユニバーサルの新副社長マティ・フォックスと7年間の契約を再交渉した。しかし、この契約はユニバーサルの所有者の交代によって名称がユニバーサル・インターナショナルに変わり、社規の多くが変わったときに中断した。新たな経営陣はランツのキャラクターたちに使用許可証を得ることと権利を売り払うことを要求した。ランツはこの要求を拒絶し、1947年の終わりユニバーサルとの契約を解除した。その後、1948年と1949年は合わせて12のカートゥーンをユナイテッド・アーティスツに自主的に提供した。

ユナイテッド・アーティスツ時代のカートゥーンはディズニー出身の監督であるディック・ランディーやエド・ラブ(英語版)の影響でアニメーションは滑らかなものとなった。またこの時代を最後に人気が低下していたアンディ・パンダの作品は作られなくなった。


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