1935年に、スタジオはユニバーサルから分離してウォルター・ランツ・プロダクションズとして独立した。1939年に、ランツは作品の著作権を手に入れた。ランツは1947年までと1951年から1972年までユニバーサルに、1948年から1950年までユナイテッド・アーティスツにアニメーション作品を提供した。
ウォルター・ランツ・プロダクションズで成功した作品には、ランツが原作のウッディー・ウッドペッカー、アンディ・パンダ、チリー・ウィリーのほかに、オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット、音楽を主体にしたスウィング・シンフォニーやスウィング・ミュージックがある。 ランツはカリトリ出身のイタリア系移民の子としてニューヨーク州ニューロシェルに生まれた。ジョー・アダムソンの著書The Walter Lantz Storyによれば、Lantzという姓は、両親が移民してきた際に入国審査官に英語風の姓として与えられたものだという。ランツは常に絵画に興味を持ち、12歳で通信の絵画学校を修了している。また、ウィンザー・マッケイの恐竜ガーティを見て影響を受けた。 自動車業界で働いていたとき、客であるフレッド・カフカがガレージの掲示板に書かれている彼の絵を気に入り、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの学費を支援してくれた。また、カフカはランツがウィリアム・ランドルフ・ハーストが経営するニューヨーク・アメリカンで印刷業務に従事することを助けた。ランツは昼間は新聞社で働き、夜間は絵画学校に通った。 ランツは16歳になると、グレゴリー・ラ・カヴァの元でアニメーション担当として働くようになった。その後、ブレイ・プロダクションズでJerry On The Jobシリーズに携わった。1925年にはDinky Doodleシリーズ(シンデレラ、赤ずきんなどの昔話を含む[4])の監督、作画、声優となり、ハル・ローチ 1929年初めに、ユニバーサルはウォルト・ディズニー原作のオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットのカートゥーンをチャールズ・ミンツ
生涯
ユニバーサルに入社するまで
ユニバーサル・カートゥーン・スタジオ時代アメリカン・マガジン(英語版)誌1月号(1925年)に掲載されたランツThe Ocean Hop (1927)
ランツはトム・パーマー(英語版)(アニメーター)やバート・フィスケ(ウィンクラー・スタジオ出身の音楽家)らを最初のスタッフとして雇った。なかでもアニメーターのビル・ノーラン(英語版)は重要で、会社の成長を助けた。ノーランはパノラマ背景の発明や、新しく合理化されたフィリックス・ザ・キャットを制作し、アメリカのアニメーションの基礎となった「Rubber hose animation」(腕、場合によっては脚を単純で流れるような曲線かつ関節がないように描くスタイル)を手がけたことで知られている。後に雇ったスタッフとしてはピント・コルヴィッグやフレッド・アヴェリーがいる。
1929年9月1日、ランツたちの最初の作品である「Race Riot」が公開された。初期のランツのカートゥーンはディズニーやウィンクラー・スタジオの特徴を受け継いだ筋やストーリを基礎に制作する方法がとられた。オズワルドのカートゥーンをミュージカルに変換することは別の問題だったが、1930年中頃にランツとそのスタッフは目標に達した。残念ながら、その過程でオズワルトの人格は一貫性を失った。彼は特定のギャグに適合させるために徹底的に変化した。