ウォシタ川の戦い
[Wikipedia|▼Menu]
アラパホー族もシャイアン族も、コロラド州のデンバー周辺の伝統的な領土を合衆国から奪われ、この地にやむなく移動してきていた。デンバーでは金鉱が発見されたので、白人はインディアンを追いだすために、インディアンの頭の皮に25ドルという高額賞金を懸けて、彼らの徹底駆除を図っていたのである。

川の湾曲部頂点では、メディシン・アロウズの下にリトル・ローブ、サンドヒル、ストーンカーフ、オールド・リトル・ウルフ(ビッグジェイク)や、およびブラック・ホワイトマンのバンドも含めた、シャイアン族の一大野営地があった[11]。またその近くにはオールド・ワールウィンド酋長のバンドからなるシャイアン族の小さな野営もあった。この2つのシャイアン族野営には、合わせて129のティーピーがあり、リトル・レイブンのアラパホー族野営地からはU字形の南東にあり、キッキング・バードがいる小さなカイオワ族野営地の西にあった(カイオワ族の酋長であるサタンタ、ローンウルフおよびブラックイーグルたちのバンドはその野営をコブ砦のある地域に移していた)。さらに下流にはコマンチ族とカイオワ・アパッチ族の野営地があった[8]。全体では約6,000人のインディアンがウォシタ川上流の冬季避寒地にいた[8][9]
コブ砦での会合、11月20日

11月半ば、シャイアン族のブラック・ケトル酋長とリトル・ローブ酋長、アラパホー族のビッグマウス酋長と、スポッテッド・ウルフのバンドが、交易業者ウィリアム・ダッチ・ビル・グリッフェンスタインのいるコブ砦に到着した[13]。グリッフェンスタインの妻はブラック・ケトル・バンド出身のシャイアン族、シャイアン・ジェニーであり、10月10日頃に死んでいた[14]。グリッフェンスタインは妻の両親に妻の逝去を報せる伝令を走らせており、ブラック・ケトルにはアメリカ軍ウィリアム・B・ヘイズン大佐(名誉少将)と会って休戦について話し合うことを奨めると伝えてもいた[15]。4人の酋長は11月20日にヘイズンと会い、このときには第10騎兵隊のヘンリー・アルボード大尉も同席して会話を記録した[13]

酋長(調停者)であるブラック・ケトルはヘイズンに「我々シャイアン族はアーカンザス川の南に住んでいるが、白人たちから年金(食糧)を補給するから北へ来てくれとずっと言われている。我々は諍いがあるだろうから北には行きたくないのに」と切り出した[16]。「メディシン・ロッジ条約」の取り決めによって、シャイアン族とアラパホー族の保留地はアーカンザス川を北の境界にしていたが、1868年4月にシャイアン族とアラパホー族への年金(食料)供給はアーカンザス川の北にあるラーニド砦とドッジ砦で配られた。8月9日には武器と弾薬が年金としてラーニド砦で配られた[17]

ブラック・ケトルは南のコブ砦にバンドを移動させた方が良いか尋ねて、次の様に続けた。アーカンザス川のこちら側のシャイアン族は全く白人と戦うつもりはないのだが、アーカンザス川の向こう側(北側)ではほとんど常に白人と戦争状態にある。アーカンザス川の北では最近、何人かの若いシャイアン族が白人から銃撃を受けて戦いを始めた。私は常に若者達に自重するよう最善を尽くしたが、ある者達は聴こうともせず、戦が始まったらもう彼等をティーピーに留めて置くことはできなかった。しかし、我々は皆平和を望んでいるし、私はバンドの者達全てがこれに従えば嬉しい。そうすればみんな平穏でいられる。私のバンドは現在ウォシタ川沿いにあり、アンテロープヒルの64km東にあって、そこには約180張のティーピーがある。私は私のバンドの民のためにのみ話している。私はアーカンザス川より北にいるシャイアン族のために話はできないし、制御もできない。[16]

インディアンの酋長は、「部族民を従属させる」というような「指導者」でも「司令官」でもない。酋長(ピースメイカー)であるブラックケトルは部族民に自重するよう呼びかけは出来るが、強制はできない。それは当然他の部族に対しても同様である。

アラパホー族のビッグマウスが次に発言した。以下はその一部である。私はアーカンザス川より北にもう一度行こうとは思わないが、私の父がそこの代理人を務めているうえ、「そこが私のバンドのための土地だ」と言って何度も何度も私を行かそうとしたので、しまいには私もそこへ行った。我々がそこへ着くやいなや諍いが起こった。私は戦いを望まないし、私のバンドの部族民も同様だ。我々はアーカンザス川より南に戻ってきたのに、米軍の兵士達が追いかけてきて戦いを続けた。これらの兵士達に使いを送って、彼等が我々を追いかけるのを止めさせて欲しい。[16]

合議制のなかの「世話役」である酋長として、ビッグマウスは白人に調停を呼び掛けているのである。

ミズーリ軍事地区軍指揮官のウィリアム・シャーマン将軍からヘイズンが10月13日に受け取った命令は、戦争しないで保留地に留まることを望むインディアンにはヘイズンが対処するようにとあり、もしフィリップ・シェリダン将軍が敵対的なインディアンを追って保留地に侵入しなければならなくなれば、彼は「白人に好意的なインディアンを救え」と言うシャーマンの命令に従うことになるが、戦士ではない部族員を最も安全な状態に置くには、コブ砦近くに野営させることだとも述べていた。シェリダンが「シャイアン族とアラパホー族を敵とみなす」と宣言したことをヘイズンは知っていた[18][19]

その結果、ヘイズンは4人の酋長に対して休戦協定を結ぶことができないことと、彼等がコブ砦に来るべきではないことを伝えた。彼等が来ると既にそこに野営しているカイオワ族やコマンチ族と揉め事になるからというのである[20]。ヘイズンは「私は平和の酋長としてここに派遣された。ここでは全てが平和にすることを望んでいる」と彼は告げ、「しかしアーカンザス川より北には偉大な戦争酋長のシェリダン将軍が居て、私は彼を制御できない。シェリダンはアラパホー族やシャイアン族と戦っている兵士全てを統率している。それ故に貴方達は自分達の国に帰らなければならない。もし兵士達が戦闘のために来れば、私の指示で来たのではなく、あの偉大な戦争酋長シェリダンの命令で来ていることを思い出す必要がある。貴方達は彼と休戦協定を結ぶ必要がある。[16]」と伝えた。

ヘイズンは彼らにシェリダンのことを「戦争酋長」と説明しているが、インディアンにはこれがどういう意味かわからなかった。そんな酋長は彼らの社会に存在しないからである。ヘイズンは11月22日にシャーマン将軍に報告した中で、「彼等と休戦したことは、現在アーカンザス川より南で戦争状態にあるインディアンの大半を私の野営地に連れてくることになる。しかしシェリダン将軍は彼の意向に逆らうインディアンたちを殺し続けており、以後も彼等を殺すだろうから、「第2のチビントン事件(サンドクリークの虐殺)」が起こるようなことがあっても、私にはそれを防げない」と告げた[21]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:110 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef