しかしながら66年にパレスチナで反乱(ユダヤ戦争)があると、ウェスパシアヌスはすぐに軍司令官として同地に派遣された。暴動自体はシリア総督ムキアヌスによって食い止められていたが、ウェスパシアヌスは息子ティトゥスとユダヤ人の反乱勢力を鎮圧、この時フラウィウス・ヨセフスと出会う。 ガルバ、オトー、ウィテッリウスと皇帝が濫立し相食む状態になる中、ウェスパシアヌスは実力者であったムキアヌスの支持を受け、シリア属州の軍団を味方につけた。そして69年、カイサリアでエジプト属州の軍の支持を、そして続いてユダヤ属州の支持を得た。ムキアヌスはドナウ軍団らにより自身が皇帝に推挙されたがこれを断り、ウェスパシアヌスを擁立し支持した。庶民出のウェスパシアヌスと実力者でありエリート軍人・貴族のムキアヌスは互いに反目することが幾度もあったが、しかしムキアヌスはウェスパシアヌスを推挙し支え続けた。この二者の間をいつも取り持ったのは、性格の良さで知られたウェスパシアヌスの息子ティトゥスだったと伝わる。 当時ローマの皇帝ウィテッリウスはガリア、ラインラントなど(ライン川防衛線)ローマ軍の中で強剛な軍団を支配下に置いていた。ユダヤの抵抗勢力と膠着状態だったウェスパシアヌスは事を急がず、まず帝国の食糧補給の要地であったエジプトを押さえる。そしてモエシア、パンノニア(ドナウ川防衛線)の支持を得て事実上ウィテッリウスに対抗できうる勢力となった。この状態で慎重なウェスパシアヌスはシリア総督ムキアヌスと部下プリムスをイタリアに侵攻させる。ムキアヌスがバルカン半島を北上しつつ抵抗勢力を駆逐している間に、プリムスの率いたドナウ軍団はウィテッリウスの軍を撃破、クレモナを制圧し、軍はローマへ侵入した。元老院はプリムスに執政官の職を与えようとしたが、彼はローマ市内の混乱を制御することができなかった。この時のローマの混乱の最中、ウェスパシアヌスの兄サビヌスは殺されてしまった。数日後にムキアヌスがローマに入城し、この混乱は収まった。ウェスパシアヌスがローマに入るまで、ムキアヌスが神殿の再建を行うなどローマの統治を行った。以降もムキアヌスは何度も執政官に就任し、皇帝の統治を助けた。 いまだ継続していたユダヤの抵抗勢力の制圧のために息子ティトゥスを属州ユダヤに残し、ウェスパシアヌス自身は70年にローマに入り、統率を失ったウィテッリウスの軍隊を立て直した。そして元老院の協力を得て統治を回復。同時期にティトゥスはイェルサレムを陥落させ、内乱は終結した。 「ウェスパシアヌスによる平和」が宣言され、ウェスパシアヌスは正式なローマ皇帝として帝位に就いた。 波乱の人生を送ってきたウェスパシアヌスであったため、即位した際に既に60歳であった。即位後、名前に「カエサル」「アウグストゥス」を入れた。これは以降の皇帝の慣例となった。 ネロ以前およびネロ、そして3人の短期間の皇帝の時期の浪費と混乱により、ローマの財政は破綻していた。これらを健全化するための改革を行った。四半世紀前から実施されていなかった国勢調査を行い、国民の数を正確に把握すると共に、徴税を正しく厳格に行うように努めた。また、国有地の貸し出しについても実情を把握して制度を改め、借地料が正しく徴収されるようにした。属州からの徴税を上げようとしたため、属州の人々は皇帝を泥棒と呼んだ。東方などの辺境の統治には自分の知る人材や有能な者をあて、元老院議員としても(自身の権力基盤である)東方の属州出身者を積極的に登用した。
皇帝内乱の時代?ローマ皇帝へ
即位後
統治
初代元首アウグストゥス以来、ユリウス=クラウディウス王朝の皇帝たちに与えられていたのと同じ権限をウェスパシアヌスに付与する「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」(皇帝法)を元老院に制定させた。これによって、ウェスパシアヌスもユリウス=クラウディウス王朝の諸皇帝と同じように統治できる法的基盤が整備された。この法は青銅板に刻まれ、のち1346年に再発見されて現在はカピトリーニ美術館にある。
その一方で、従来元老院に(慣習的に)与えられていた皇帝弾劾権を否定したため、権力の均衡が崩れたとされる。これによって政権交代は原則的に皇帝の死によってのみ行われるようになったため、後々まで皇帝の暗殺が横行する原因となった(ウェスパシアヌスの次男ドミティアヌスも暗殺によって政権を失った)。軍人皇帝時代を含め、コンスタンティノープル陥落によるローマ滅亡までの皇帝の暗殺殉職率は約半数に及ぶとされる。ただしこれには反論もあり、ウェスパシアヌス以前の皇帝も多数暗殺されている上、ウェスパシアヌスの長男は病死、次男以降の五賢帝時代も暗殺は起きていないため、暗殺が多い時期は国情の安定さと関連があるだけである、とする見解もある。
ネロの命令により、66年よりユダヤ戦争を担当。70年9月、息子のティトゥスがイエルサレムを陥落させ、74年の春、フラウィウス・シルウァ