ウェストバージニア州
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州南西部のハンティントン市は、オハイオ州とケンタッキー州に近く、東部パンハンドル部のマーティンズバーグ市ハーパーズ・フェリー町ワシントン大都市圏に入ると見なされるが、その間にメリーランド州とバージニア州が入っている。このように地理的に特徴ある位置にあるので、大西洋岸中部、アップランドサウス南東部など幾つかの地域に含まれることも多い。通常は「アパラチア」と呼ばれるアパラチア地域委員会が管轄する地域にその全体が含まれる唯一の州である[8]

家庭で話される言語(ウェストバージニア州) 2010[9]

英語  97.67%
スペイン語  1.07%

人種構成(ウェストバージニア州) 2010

白人  93.2%
黒人  3.4%
ヒスパニック  1.2%
アジア系  0.7%
インディアン  0.2%
混血  1.5%

歴史詳細は「ウェストバージニア州の歴史」を参照

州内の特にマウンズビル、サウスチャールストン、ロムニーの町がある地域には前史時代マウンド建設文化で築かれた人工の土盛りマウンドが残されている。そこから出てきた人工物は、村社会があったことを示している。冷間で銅を加工し、部族間の交易を行っていた。

ビーバー戦争の後、イロコイ族インディアンが他部族を追い出しオハイオ・バレー上流を狩猟場として保持していた。イロコイ族より前にこの地域を占めていた部族としては、オセージ族などスー語族のインディアンであり、戦争を避けるために西に流れてミシシッピ川を越えた。

現在ウェストバージニア州となっている地域は、ヨーロッパ系アメリカ人の中でも領有を争う場となり、アメリカ独立戦争の前にはペンシルベニア州とバージニア州が領有権を主張していた。バンダリア会社[10]、後にはオハイオ会社やインディアナ会社のような投機的土地会社幾つかが、ウェストバージニア州やケンタッキー州の土地に対する権利を正当化しようとしたが、失敗した。ペンシルベニア州とバージニア州の州境論争が決着すると、ケンタッキー州の創設に繋がり、ケンタッキー州民は「満足し、...ウェストバージニア州民の多くは感謝していた」と言われている[11]

ウェストバージニア州は元々イギリス領バージニア植民地(1607年-1776年)の一部であり、バージニア州の西部(1776年-1863年)だった。バージニア州議会において、昔から議員定数の不均衡な配分の結果代表の数に不足があると感じていた地域住民は、アメリカ合衆国からの脱退を論じたときに大きく意見が分かれた。1861年、西部と北部の郡はフランシス・ピアポントの下に別の政府を作り、「復興した」政府と呼んだ。住民の多くがバージニア州からの分離に賛成し、新州は1863年に合衆国加盟を認められた。1864年、憲法制定会議が州憲法を起草し、住民投票に掛けられることなく、議会が批准した。ウェストバージニア州は奴隷制度を廃止し、アメリカ連合国の役人を務めた者あるいは同国のために戦った者から暫定的に選挙権を剥奪した。

ウェストバージニア州の歴史は、その山がちな地形、広大な川のバレー、豊富な自然資源の影響を大きく受けてきた。これらは全てその経済を推進し、住民の生活様式に影響した要素であり、現在も続いている。
前史時代

2010年、地元産出の石筍を分析すると、インディアンは紀元前100年には既に土地を切りはらうために森を燃やしていたことが明らかになった。イースタン・ウッドランド期後期の部族は、狩猟や漁労に関わり、焼畑農業を実行するようになっていた。他にも時間を使う随伴作物を作る畑まで進んだ部族もいた。古代から近代まで続いていたのは、土地と時間をタバコ栽培にあてることだった。

当初トウモロコシは重要な食料ではなかった。しかしインディアン部落ではそのシチメンチョウを育てるために、トウモロコシに強く頼るようになり、カナー・フォートエンシェント人は養鶏を行っていた。原始時代から「バニック」と呼ぶトウモロコシパンや平たいライ麦パンを作っていた。18世紀初期より前の時代は、「炉辺の小屋文化」と呼ばれることもあり、ポトマック川ジェームズ川沿いの交易拠点が地域に広がっていた。

ロバート・F・マスロースキ博士は「アデナ・インディアンは儀式用にパイプを用いていた。石から切り出しており、例外的な美術品だった。パイプとタバコを喫うことは、前史時代後期に通常のことになってきた。粘土で作ることもあり、平たくなった。」「カー・バレーのパレオ・インディアンや古代家屋については何も分かっていないが、考古学者達はウッドランド期やフォートエンシェント期の家屋については証拠を見つけてきた。」「ウッドランド期のインディアンはウィグワム(テント小屋)に住んだ...ウッドランド期のインディアンはヒマワリ、ウリ、カボチャを育て、ラムクォーター、メイグラス、サンプウィード、スマートウィード、小さなオオムギの種を集めた。」「フォートエンシェント期インディアンは、より大きな正方形あるいは矩形の家に住んだ...フォートエンシェント期インディアンは、真の農夫だったと考えられる。集落の周りに大きな農地を耕作した。それほど多くの種類の種を育てなかったが、トウモロコシ、大豆、ヒマワリ、ウリと多種のカボチャの栽培に集中した。家禽のシチメンチョウを育て、ペットとして犬を飼った」と記している。2009年時点で州内では12,500以上の考古学遺跡が記録されている[12]
ヨーロッパ人の探検と入植トマス・リー、オハイオ会社の初代マネジャー

1671年、バージニア植民地総督ウィリアム・バークレーの指示で、エイブラハム・ウッド将軍が、ヘンリー砦からトマス・バッツとロバート・ファラムに指揮させた部隊を派遣し、カナー滝を発見した。1716年、アレクサンダー・スポッツウッド副知事は約30人の騎兵と共に現在のペンドルトン郡地域に遠征を行った。インディアン交易業者ジョン・ヴァン・ミーターは1725年に北部地域に入ってきた。同年、ペンシルベニアからのドイツ人開拓者がポトマック川沿い、現在のシェパーズタウンであるニューメクレンバーグを設立し、他の者が続いた。

1661年、イングランド王チャールズ2世が、ノーザンネックと呼ばれたポトマック川からラッパハノック川の間の土地を、一群の紳士達に払い下げた。この土地が第6代フェアファックス卿トマス・フェアファックス(英語版)の所有するところとなり、1746年、その土地の西端を示すために、ポトマック川北支流の水源に石碑が立てられた。この土地のかなりの部分を、1748年から1751年にジョージ・ワシントンが測量した。その日誌に拠れば、ポトマック川南支流沿いに既に多くの不法占有者、その大半はドイツからの移民がいたことを示している。主にバージニア人で構成されたオハイオ会社に雇われた測量士クリストファー・ギストは、1751年から1752年にカナー川河口の北、オハイオ川沿いを探検した。この会社は「バンダリア」という名前で14番目の植民地を造ろうとしていた。1750年以降に多くの開拓者が山を越えたが、インディアンの抵抗に遭った。現在のウェストバージニア州域にインディアンはほとんど住んでいなかったが、共有の狩猟場であり、多くの道が交差していた。フレンチ・インディアン戦争のとき、散開して造られたイギリス人開拓地はほとんど破壊された。

1774年、バージニア総督第4代ダンモア伯ジョン・マーレイが、山越えで軍隊を率いて行き、当時大佐のアンドリュー・ルイスの部隊が、ホコレスクワ(別名コーンズトーク)のショーニー族インディアンに対処し、カナー川とオハイオ川が合流する地点でおきたポイントプレザントの戦いで、壊滅的な打撃を与えた。インディアンからの攻撃はアメリカ独立戦争後も続いた。独立戦争中のバージニア西部の開拓者は概ね行動的なホイッグ(独立支持派)であり、多くの者が大陸軍に従軍した。しかし、1780年から1781年に起きたクレイプールの反乱では、一群の者が植民地の税金支払いを拒否しており、この地域が戦争により疲弊していたことを示している。
アリゲイニー越えのバージニア

バージニア西部の社会的状況は、東部のそれとは全く異なっていた。住民は均質ではなく、ペンシルベニアから来ていた移民のかなりの部分は、ドイツ人、プロテスタントのスコットランド・アイルランド人、さらには北部州から移住してきた開拓者だった。バージニア州の東部と南部は、大半が東部バージニア人が入っていた。アメリカ独立戦争のとき、アリゲイニー山地より向こう側に新しい州を作る動きが復活し、「ウェストシルベニア」州設立の請願がアメリカ合衆国議会に提出された。その根拠は東部の者にとって山岳がほとんど通過できない障害になっているというものだった。山がちの地形では奴隷も利益の出ないものとなり、時間と共に社会、政治、経済、文化の違いが大きくなるだけだった。バージニアにおける奴隷の結婚式、1838年

1829年、バージニア州新憲法策定のために集められた会議では、山岳部越えの郡部の反対があったが、選挙権について保有資産資格を要求し、奴隷を所有する郡には奴隷人口の5分の3を人口に加算してアメリカ合衆国下院議員の数を決めるという恩恵が与えられた。その結果、1郡を除き山岳部越えの郡部はこの憲法を拒絶すると投票したが、東部の郡の支持があったために新憲法は成立した。

1850年から1851年に開催されたバージニア憲法制定会議、いわゆる改革会議は、州西部にとって重要な多くの問題を提起していた。選挙権は21歳以上の全ての白人男性に拡大された。州知事、副知事、判事、保安官など郡役人は、住民投票で選出されることになった。州議会の構成も変更され、下院議員は1850年国勢調査に基づく白人人口で議席が配分され、上院議員は西部に20人、東部に30人と一律に固定された。州議会は1865年に白人人口で代議員数を割り付け直し、さもなければ住民投票に掛けられるという条項があったので、西部の住人も承認した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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