ウェイロン・ジェニングス
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彼のシングル「Brown Eyed Handsome Man」は、年末までにホット・カントリー・シングルのチャートで3位になった[46]

この時期、代理店主催の音楽ツアーは非生産的で、宿泊費と旅費を支払い終えるとジェニングスの利益は目減りしてしまい、彼は次の会場で演奏するためにギャラの前払いを代理店やRCAビクターに頻繁に要求していた。路上で300日間演奏している間、ジェニングスの借金はアンフェタミンの消費とともに増加し、彼は自分が堂々巡りの罠に嵌まったと信じ込むようになっていた[47]

1972年、ジェニングスは『Ladies Love Outlaws』をリリースした。 アルバムの題名となったシングルはヒット曲となり、アウトロー・カントリーへの彼の最初のアプローチとなった[48]。 ジェニングスは自身のバンド、ザ・ウェイローズと共に演奏し録音することに慣れていたが、これは大きな力を持つナッシュビルのプロデューサーに認められなかった。時間が経つにつれて、ジェニングスはナッシュビル・サウンドには芸術的自由が欠如しているため制約を受けていると感じるようになった[49]。「カントリーポリタン(en)」として公表された音楽スタイルは、オーケストラ的な編曲と伝統的なカントリー楽器が無いという点が特徴となっていた。そのプロデューサーは、ジェニングスに自分のギターを弾かせたり、録音する素材を選択させたりしなかった[33]
アウトロー・カントリー

ジェニングスはインタビューで、ナッシュビル時代の制約を次のように回想した「彼らは何もさせてくれない。決められた服装を強要された。あらゆる事を決められたやり方で行うよう強要された。(中略)彼らは私を壊そうとし続けたんだ(中略)私はちょうどビジネスに取り掛かり、自分のやり方で物事を進めていた。(中略)私の音楽に干渉してくるので、私は意固地になった」[50]。1972年までに『Ladies Love Outlaws』のリリースを終えると、ジェニングスは肝炎に罹って入院した。

病気と音楽産業に悩まされ、彼は引退を考えていた。オルブライトが彼のもとを訪ねて音楽を続けるよう彼を説得し、ニール・リシェンを新しいマネージャーに付けることを話した。一方、ジェニングスは回復中の生活費を賄うためにRCAレコードから25,000USドルのロイヤルティー前払いを要求した。彼がリシェンと会ったその日、RCAは1965年に受け入れたのと同じ条件で、RCAとの5%のロイヤルティ契約に署名するためのボーナスとして5,000USドルを提示した。リシェンに確認した後、彼は申し出を拒否した[51]

リシェンはジェニングスのレコーディングおよびツアー契約の再交渉を開始した。ジェニングスの新しい契約は、彼に75,000ドルの前払いと芸術的管理をもたらした[52][53]。リシェンはジェニングスに、アウトロー・カントリーのイメージに合うよう、彼が病院で伸ばしたあご髭を保つよう助言した[54][55][56]左から、クリス・クリストファーソンウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングス。1972年

1973年までにネルソンは音楽に復帰、アトランティック・レコードで成功を収めた。アトランティック・レコードはまさにジェニングスとの契約を試みていたが、ネルソン人気の高まりに推される形で、RCAは潜在的なスターを逃す前にジェニングスとの再交渉を行った[53]

1973年、ジェニングスは『Lonesome』『On'ry and Mean』『Honky Tonk Heroes』をリリース、最初のアルバムは彼の創造的な管理下で録音されリリースされた。これらのアルバムリリースは、ジェニングスにとって大きな転機となり、彼の最も批判的かつ商業的に成功した年の始まりとなった。さらに『This Time』『The Ramblin 'Man』のヒットアルバムが続き、これはどちらも1974年にリリースされた。アルバムのタイトル曲はいずれもビルボードのカントリーシングルチャートのトップになり、自筆の「This Time」はジェニングス初の第1位シングル曲になった。1975年にリリースされた『Dreaming My Dreams』には第1位になったシングル曲「Are You Sure Hank Done It This Way」が収録され、アメリカレコード協会(RIAA)によってゴールド認定を受けた彼の最初のアルバムとなった。それはまた彼の6連続の始まりで、ソロスタジオアルバムがゴールド以上の認定を受けることになる[57][58]。1976年、ジェニングスは『Are You Ready for the Country』をリリースした。このアルバムはビルボードのカントリーアルバムで同年に3度の第1位を記録し、10週にわたりチャートの頂点にいた。1976年にそれはレコード・ワールド誌によりカントリー・アルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、RIAAによりゴールド認定された[59]

1976年、RCAはジェニングス、ウィリー・ネルソン、トンパル・グレイザー、ジェシー・コルターによるコンピレーションアルバム『Wanted! The Outlaws』をリリースした。このアルバムは初めてプラチナ認定となったカントリー音楽のアルバムだった[33]。翌年、ネルソンとのヒットデュエット曲「Luckenbach, Texas」が生まれたアルバム『Ol 'Waylon』をRCAが発行した[60]。1978年にはアルバム『Waylon and Willie』が続き、ヒットシングル「Mammas Don't Let Your Babies Grow Up to Be Cowboys」を制作した[61]。ジェニングスはまた『I've Always Been Crazy』も1978年にリリースした[62]。同年、成功の頂点でジェニングスは、アウトローの盛り上がりによる限界を感じるようになってきた[55]。ジェニングスは「Don't You Think This Outlaw Bit's Done Got Out of Hand?」という歌の中でイメージの乱用について言及し、このブームが「自己実現的な預言」になったと主張した[55][63]。1979年、RCAはジェニングス初のコンピレーション『Greatest Hits』 をリリースし[62]、これは同じ年にゴールド認定され、2002年には5倍のプラチナに認定された[64]

また、1979年に、ジェニングスはCBSの連続ドラマ番組『爆発!デューク』の出演陣にナレーターのバラード歌手として参加した[注釈 4]。彼を直接紹介する唯一の話は第7シーズン中の「Welcome, Waylon Jennings(ようこそ、ウェイロン・ジェニングス)」で、 ジェニングスはデューク家の旧友として自分自身を演じた。彼はまた同番組のために、彼のキャリアで最大のヒットとなったテーマソング「Good Ol' Boys」を書いて歌った。番組宣伝のシングルとしてリリースされ、ビルボードのカントリーシングルチャートで第1位に到達するジェニングス12番目のシングルとなった。それはまた垣根を超えたヒット曲でもあり、Billboard Hot 100では最高21位だった[62]
晩年

1980年代半ばに、ジョニー・キャッシュ、クリス・クリストファーソン、ネルソン、そしてジェニングスはハイウェイメンと呼ばれるグループを結成して売り上げを伸ばした[65]。ハイウェイメンとの仕事とは別に、1982年にジェニングスはウィリー・ネルソンと共にゴールドアルバム『WWII』をリリースした[61]

1985年、ジェニングスは「ウィ・アー・ザ・ワールド」を録音するためUSAフォー・アフリカに参加したが、スワヒリ語歌詞をめぐる論争からスタジオを去った。


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