ウェイロン・ジェニングス
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彼は、ラボック (テキサス州)地元テレビ局のタレント・ショー[注釈 1]にて「ヘイ・ジョー」を歌って優勝した。後に彼は地元のタレント・ナイト期間中にリトルフィールドのパレス・シアターで頻繁に公演した[6]

ジェニングスは、リトルフィールドのラジオ局KVOWで行われたオーディションを12歳で受けた[7]。 主催のJ・B・マクシャンは彼のスタイルを気に入り、毎週の30分番組のために彼を雇った。この採用の後、ジェニングスは他の友人や知人を集めてザ・テキサス・ロングホーンズ(The Texas Longhorns)を結成した。カントリー&ウエスタンブルーグラスの音楽が混ざったバンドのスタイルは、良い評価をされないことも多かった[8]

16歳の時、ジェニングスは幾度かの懲戒違反を経て、高校中退が確定的となった。学校を去った彼は青果店で働き、短期仕事もしていたが、 ジェニングスは好きな活動の音楽が自分の職業になると感じていた[9]。翌年、ジェニングスとテキサス・ロングホーンズは、ラボックのKFYOラジオで「Stranger in My Home」「There'll a a New Day」のデモを録音した[8]。ジェニングスや他の地元のミュージシャンは、カントリーラジオ局KDAVで演奏することが多く、彼はその時にバディ・ホリーと出会った。この2人は地元番組で会うことが多く、ジェニングスはKDAVの『Sunday Party』でホリーの演奏に参加するようになった[10]

KVOW局での演奏放送に加えて、1956年にジェニングスはDJとして働き始め、ラボックに引っ越した[11]。彼の番組は午後4時から夕方10時まで6時間流れ、ジェニングスは2時間を昔のカントリー、2時間を最新カントリー、残る2時間は取り混ぜの録音だった[12]。その最後2時間に、ジェニングスはチャック・ベリーリトル・リチャードなどのアーティストの曲を演奏した。オーナーは彼がその演奏録音を放送するたびに彼を叱責し、彼が続けて2回リチャードのレコードを流した時、オーナーは彼を解雇した[13]自身の番組放送時のジェニングス。1958年

KVOWに在籍中、別のラジオ局KLVTで働いていたDJのスカイ・コービンがジェニングスのもとを訪れた。ハンク・スノウの「I'm Moving On」に合わせてジングルを歌うのを聞いたコービンは、彼の声に感銘を受けたのだ。ジェニングスは週50ドルの給料で生活する経済的困窮を打ち明けた。そこでコービンはジェニングスをKLVTに招き入れ、最終的にはコービンが当時降板になった場所に入った[14]。後にコービン家はラボックのFM局KLLLを買い取り、同局の方針をカントリーに変更した。ジェニングスはコービン家が運営するFM局最初のDJとして雇われた[15]。ジェニングスはコマーシャルを制作したり他のDJとジングルを作った。彼らの人気が高まってきた頃、イングランドツアーからバディホリーが戻ってきてKLLL局を訪れた[16]

ホリーは、ジェニングスを自分の最初のアーティストとした。 ホリーは彼に新しい服を着せ、一緒に彼のイメージを好印象に変えた[17]。そして彼はクローヴィス (ニューメキシコ州)にあるノーマン・ペティの録音スタジオでジェニングスのセッションを手配した。9月10日に、ジェニングスはサックス奏者のキング・カーティスそしてギター奏者のホリーおよびトミー・オールサップと共に「Jole Blon」と「When Sin Stops(Love Begins)」を録音した。 その後、ホリーは「冬のダンスパーティーツアー」でのエレキベース奏者にジェニングスを雇った[11]
冬のダンスパーティーツアー「音楽が死んだ日」も参照

バディ・ホリーが主催する冬のダンスパーティーツアーは1959年1月23日にミルウォーキー (ウィスコンシン州)で始まった。各公演のスケジュールを立てる際に会場間の距離を考慮していなかったため、ツアー移動量が物流上の問題を引き起こした。その問題に加えて、凍りつくような天候の中で暖房のないツアーバスが2回故障し、ドラマーのカール・バンチが(バスに乗っている間に)つま先に凍傷を負って入院するという悲惨な結果が起こった。そのため、ホリーは別の交通手段を探すことにした[18]

ホリーは次の会場ムーアヘッド (ミネソタ州)までの長いバス旅行を避けるべく、自分自身とジェニングスとトミー・オールサップのために4人乗りのビーチクラフト ボナンザ飛行機をチャーターした。クリアレイクの公演後、オールサップはコイントスで負けて、チャーター機の座席をリッチー・ヴァレンスに空け渡した。一方でジェニングスは、ザ・ビッグ・ボッパーで知られるJ・P・リチャードソンが風邪をこじらせていたので自発的に席を譲った[19][20]

バンド仲間が飛行機の座席を放棄して空路よりもバス乗車を選んだことをホリーが知ると、ホリーとジェニングスの間では友達同士の他愛もないジョークの掛け合いが続いた。そしてそのジョークが、その後何十年も脳裏に蘇ってはジェニングスを悩ませることとなる。ホリーは「じゃあ、お前の乗るおんぼろバスが凍っちまう事を願うよ!」とジェニングスに冗談を言った。これにジェニングスは「じゃあ、俺はお前の乗るおんぼろ飛行機が落っこっちまう事を願うぜ!」と冗談めかして返答した[21]。それから1時間半も経たない1959年2月3日(後に音楽が死んだ日と通称される)午前1時過ぎに、ホリーのチャーター機はメーソンシティ (アイオワ州)郊外のトウモロコシ畑に墜落し、機内にいた全員が即死した[22]

その朝遅く、ジェニングスの家族はラジオで「バディ・ホリーと彼のバンドが死亡した」と聞いた。ジェニングスは家族に電話をかけた後、KLLLのスカイ・コービンに電話をして自分自身は生きていると伝えた[23]。ツアーの企画会社はその夜のムーアヘッドでの演奏をやってくれればラボックでのホリーの葬儀に出席できるよう、ジェニングスおよびバンドのファーストクラスのチケット代金を支払うことを約束した[24]。同演奏ショーが終わって、フライト代金は全く支払われず[25]、ジェニングスとオールサップはリード歌手としてジェニングスを主役に立てて、さらに2週間ツアーを続けることになった[11]。当初合意された給与の半分に満たない額が支払われ、ニューヨークに戻るとジェニングスはホリーのギターとアンプをグランド・セントラル駅のロッカーに入れ、その鍵をホリー未亡人(Maria Elena Holly)に郵送した。それから彼はラボックに戻った[26]

1960年代初頭、ジェニングスは「The Stage (Stars in Heaven)」を作詞して録音した。この曲はヴァレンス、ビッグボッパー、ホリーおよび飛行機墜落の1年後に交通事故で死亡した若いミュージシャンのエディ・コクランに捧げるものだった。その後何十年もの間、ジェニングスはホリーを殺した墜落に責任を感じていることを繰り返し吐露した。この罪悪感がジェニングスの経歴の大部分にわたる薬物乱用の期間を引き起こすことになった[27]

「Jole Blon」は1959年3月にリリースされたが、売上げは限定的だった[2]。失業中のジェニングスはKLLLに戻った。ホリーの死に深く引きずられ、局でのジェニングスのパフォーマンスは悪化。


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