ウェイロン・ジェニングス
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彼は続けて「The Twelfth of Never」「Kisses Sweeter than Wine」「Don't Think Twice, It's All Right(邦題:くよくよするなよ)」のデモを録音し、シングル「Sing the Girls a Song, Bill」(B面「The Race Is On」[注釈 3])も制作した。同シングルは1964年4月から10月にかけてリリースされた[34]

ジェニングスのレコードは、当時A&Mの主要リリースがカントリーではなく民俗音楽だったため、ほとんど成功しなかったことが判明している[35]。フェニックスの地元ラジオで、彼はイアン・タイソンの「Four Strong Winds」やボウマンと共同作詞した「Just To Satisfy You」で若干のヒットを飛ばした。 一方、彼はBATレコードにてアルバム『Waylon at JD's』を録音し、これはクラブで500枚が売れた後、さらに500枚が製版された[36]。彼はまた、1964年のアルバムでパッツィ・モンタナのリードギターを演奏した[37]ジェニングスがRCAビクターの広告肖像に登場。1965年

歌手ボビー・ベアは、フェニックス通過中にカーラジオでジェニングスの「Just to Satisfy You」を聞き、最終的にその曲と「Four Strong Winds」をレコーディングした[38]。フェニックスに立ち寄ってJD'sでのジェニングスの公演を目の当たりにした後、彼はナッシュビルにあるRCAビクターのスタジオ責任者チェット・アトキンスに電話をかけ、ジェニングスと契約する必要があることを伝えた[39]

ジェニングスがRCAビクターの契約を提示された後、彼はJD'sでのギグを辞めるべきかどうか確信が持てずにいた。彼はその後、自分のショーにも参加してくれたRCAビクター所属アーティストの友人ウィリー・ネルソンに助言を求めに行った。2人が会い、クラブでの可能性とジェニングスの健全な利益について話し合った後、ジェニングスはフェニックスに留まるべきでナッシュビルに移籍しない方がいい、とネルソンは提案した[40]

それにもかかわらず、ジェニングスはRCAビクターの申し出を受けることに決め、1965年にジェニングスはRCAビクターと正式に契約した[41]。8月21日、ジェニングスは「That's the Chance I'll Have to Take」でビルボードのホットカントリーソング・チャートに初登場した[42]

1966年、ジェニングスはRCAビクターのデビューアルバム『Folk-Country』をリリースし、続いて『Leavin' Town』『Nashville Rebel』をリリースした[43][44]。『Leavin' Town』は、最初のシングル2曲「Anita, You're Dreaming」と「Time to Burn Again」がともにビルボードのホットカントリー部門チャートで最高17位となる成功を収めた。同アルバム3枚目のシングル、ゴードン・ライトフットの「(That's What You Get) For Lovin' Me」のカバーは最高9位に到達し、ジェニングス初のトップ10シングルとなった。1967年、ジェニングスはヒットシングル「Just to Satisfy You」をリリースした。インタビューの中で、ジェニングスは、この曲がバディ・ホリーとロカビリー音楽を融合した自分の作品の影響の「かなり良い例」だと語った[45]。ジェニングスは、この同名ヒットシングルを収録するアルバム『Just to Satisfy You』を制作し、チャート中位の好調な売れ行きだった[43]。ジェニングスのシングルは成功を収めて「The Chokin 'Kind」は1967年にビルボードのホットカントリーシングルで最高8位、翌年の「Daddy That's Walk'll Walk the Line」は最高2位のヒット曲になった。1969年、ザ・キンバリーズと彼の合作によるコラボシングル「MacArthur Park」はグラミー賞(最優秀カントリー・デュオ/グループ・パフォーマンス賞)を受賞した。彼のシングル「Brown Eyed Handsome Man」は、年末までにホット・カントリー・シングルのチャートで3位になった[46]

この時期、代理店主催の音楽ツアーは非生産的で、宿泊費と旅費を支払い終えるとジェニングスの利益は目減りしてしまい、彼は次の会場で演奏するためにギャラの前払いを代理店やRCAビクターに頻繁に要求していた。路上で300日間演奏している間、ジェニングスの借金はアンフェタミンの消費とともに増加し、彼は自分が堂々巡りの罠に嵌まったと信じ込むようになっていた[47]

1972年、ジェニングスは『Ladies Love Outlaws』をリリースした。 アルバムの題名となったシングルはヒット曲となり、アウトロー・カントリーへの彼の最初のアプローチとなった[48]。 ジェニングスは自身のバンド、ザ・ウェイローズと共に演奏し録音することに慣れていたが、これは大きな力を持つナッシュビルのプロデューサーに認められなかった。時間が経つにつれて、ジェニングスはナッシュビル・サウンドには芸術的自由が欠如しているため制約を受けていると感じるようになった[49]。「カントリーポリタン(en)」として公表された音楽スタイルは、オーケストラ的な編曲と伝統的なカントリー楽器が無いという点が特徴となっていた。そのプロデューサーは、ジェニングスに自分のギターを弾かせたり、録音する素材を選択させたりしなかった[33]
アウトロー・カントリー

ジェニングスはインタビューで、ナッシュビル時代の制約を次のように回想した「彼らは何もさせてくれない。決められた服装を強要された。あらゆる事を決められたやり方で行うよう強要された。(中略)彼らは私を壊そうとし続けたんだ(中略)私はちょうどビジネスに取り掛かり、自分のやり方で物事を進めていた。(中略)私の音楽に干渉してくるので、私は意固地になった」[50]。1972年までに『Ladies Love Outlaws』のリリースを終えると、ジェニングスは肝炎に罹って入院した。

病気と音楽産業に悩まされ、彼は引退を考えていた。オルブライトが彼のもとを訪ねて音楽を続けるよう彼を説得し、ニール・リシェンを新しいマネージャーに付けることを話した。一方、ジェニングスは回復中の生活費を賄うためにRCAレコードから25,000USドルのロイヤルティー前払いを要求した。彼がリシェンと会ったその日、RCAは1965年に受け入れたのと同じ条件で、RCAとの5%のロイヤルティ契約に署名するためのボーナスとして5,000USドルを提示した。リシェンに確認した後、彼は申し出を拒否した[51]

リシェンはジェニングスのレコーディングおよびツアー契約の再交渉を開始した。ジェニングスの新しい契約は、彼に75,000ドルの前払いと芸術的管理をもたらした[52][53]。リシェンはジェニングスに、アウトロー・カントリーのイメージに合うよう、彼が病院で伸ばしたあご髭を保つよう助言した[54][55][56]左から、クリス・クリストファーソンウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングス。1972年

1973年までにネルソンは音楽に復帰、アトランティック・レコードで成功を収めた。アトランティック・レコードはまさにジェニングスとの契約を試みていたが、ネルソン人気の高まりに推される形で、RCAは潜在的なスターを逃す前にジェニングスとの再交渉を行った[53]

1973年、ジェニングスは『Lonesome』『On'ry and Mean』『Honky Tonk Heroes』をリリース、最初のアルバムは彼の創造的な管理下で録音されリリースされた。これらのアルバムリリースは、ジェニングスにとって大きな転機となり、彼の最も批判的かつ商業的に成功した年の始まりとなった。


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