ウェイロン・ジェニングス
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その後、ホリーは「冬のダンスパーティーツアー」でのエレキベース奏者にジェニングスを雇った[11]
冬のダンスパーティーツアー「音楽が死んだ日」も参照

バディ・ホリーが主催する冬のダンスパーティーツアーは1959年1月23日にミルウォーキー (ウィスコンシン州)で始まった。各公演のスケジュールを立てる際に会場間の距離を考慮していなかったため、ツアー移動量が物流上の問題を引き起こした。その問題に加えて、凍りつくような天候の中で暖房のないツアーバスが2回故障し、ドラマーのカール・バンチが(バスに乗っている間に)つま先に凍傷を負って入院するという悲惨な結果が起こった。そのため、ホリーは別の交通手段を探すことにした[18]

ホリーは次の会場ムーアヘッド (ミネソタ州)までの長いバス旅行を避けるべく、自分自身とジェニングスとトミー・オールサップのために4人乗りのビーチクラフト ボナンザ飛行機をチャーターした。クリアレイクの公演後、オールサップはコイントスで負けて、チャーター機の座席をリッチー・ヴァレンスに空け渡した。一方でジェニングスは、ザ・ビッグ・ボッパーで知られるJ・P・リチャードソンが風邪をこじらせていたので自発的に席を譲った[19][20]

バンド仲間が飛行機の座席を放棄して空路よりもバス乗車を選んだことをホリーが知ると、ホリーとジェニングスの間では友達同士の他愛もないジョークの掛け合いが続いた。そしてそのジョークが、その後何十年も脳裏に蘇ってはジェニングスを悩ませることとなる。ホリーは「じゃあ、お前の乗るおんぼろバスが凍っちまう事を願うよ!」とジェニングスに冗談を言った。これにジェニングスは「じゃあ、俺はお前の乗るおんぼろ飛行機が落っこっちまう事を願うぜ!」と冗談めかして返答した[21]。それから1時間半も経たない1959年2月3日(後に音楽が死んだ日と通称される)午前1時過ぎに、ホリーのチャーター機はメーソンシティ (アイオワ州)郊外のトウモロコシ畑に墜落し、機内にいた全員が即死した[22]

その朝遅く、ジェニングスの家族はラジオで「バディ・ホリーと彼のバンドが死亡した」と聞いた。ジェニングスは家族に電話をかけた後、KLLLのスカイ・コービンに電話をして自分自身は生きていると伝えた[23]。ツアーの企画会社はその夜のムーアヘッドでの演奏をやってくれればラボックでのホリーの葬儀に出席できるよう、ジェニングスおよびバンドのファーストクラスのチケット代金を支払うことを約束した[24]。同演奏ショーが終わって、フライト代金は全く支払われず[25]、ジェニングスとオールサップはリード歌手としてジェニングスを主役に立てて、さらに2週間ツアーを続けることになった[11]。当初合意された給与の半分に満たない額が支払われ、ニューヨークに戻るとジェニングスはホリーのギターとアンプをグランド・セントラル駅のロッカーに入れ、その鍵をホリー未亡人(Maria Elena Holly)に郵送した。それから彼はラボックに戻った[26]

1960年代初頭、ジェニングスは「The Stage (Stars in Heaven)」を作詞して録音した。この曲はヴァレンス、ビッグボッパー、ホリーおよび飛行機墜落の1年後に交通事故で死亡した若いミュージシャンのエディ・コクランに捧げるものだった。その後何十年もの間、ジェニングスはホリーを殺した墜落に責任を感じていることを繰り返し吐露した。この罪悪感がジェニングスの経歴の大部分にわたる薬物乱用の期間を引き起こすことになった[27]

「Jole Blon」は1959年3月にリリースされたが、売上げは限定的だった[2]。失業中のジェニングスはKLLLに戻った。ホリーの死に深く引きずられ、局でのジェニングスのパフォーマンスは悪化。昇給を拒否された後に彼は局を去り、後にコンテストを経てKDAVで短期で働いた[28]
フェニックスとナッシュビル・サウンド

妻マキシンの父親が病気で、ジェニングスはアリゾナとテキサスの間を往復しなければならなくなった。彼は家族とともに、妻の妹が住んでいるクーリッジ (アリゾナ州)に引っ越した。クーリッジやフェニックス (アリゾナ州)にある幾つかのバーやクラブの演奏で成功した後、彼はJD'sことジェームズ・D・ミュジルから勧誘された。ミュジル[注釈 2]はメイン・アーティストとしてジェニングスを雇い、彼の活動に合わせたクラブを設計した[29]

彼は、ベーシストのポール・フォスター、ギタリストのジェリー・グロップ、ドラマーのリッチー・オルブライトと共に、自分のバックバンドとしてザ・ウェイローズ(The Waylors)を結成した[30]。ジェニングスと彼のバンドはスコッツデール (アリゾナ州)のナイトスポットで演奏し、すぐに現地のファンを獲得した[31]。JD'sにて、ジェニングスは自身の「ロック気質な」スタイルのカントリー音楽を開発し、後のキャリアで自分をそのように定義した[32]

1961年、ジェニングスはトレンドレコード社とレコーディング契約を結び[31]、シングル「Another Blue Day」である程度の成功を収めた[33]。彼の友人ドン・ボウマンが、当時A&Mレコードの共同経営を始めたジェリー・モスにジェニングスのデモを持ち込んだ。1963年7月9日、ジェニングスはレコード売上の5%を貰うとの内容でA&Mと契約を結んだ。A&Mにて、彼は「Love Denied」(B面「レイヴ・オン」)を、そして「Four Strong Winds」(B面「Just to Satisfy You」)を録音した。 彼は続けて「The Twelfth of Never」「Kisses Sweeter than Wine」「Don't Think Twice, It's All Right(邦題:くよくよするなよ)」のデモを録音し、シングル「Sing the Girls a Song, Bill」(B面「The Race Is On」[注釈 3])も制作した。同シングルは1964年4月から10月にかけてリリースされた[34]

ジェニングスのレコードは、当時A&Mの主要リリースがカントリーではなく民俗音楽だったため、ほとんど成功しなかったことが判明している[35]。フェニックスの地元ラジオで、彼はイアン・タイソンの「Four Strong Winds」やボウマンと共同作詞した「Just To Satisfy You」で若干のヒットを飛ばした。 一方、彼はBATレコードにてアルバム『Waylon at JD's』を録音し、これはクラブで500枚が売れた後、さらに500枚が製版された[36]。彼はまた、1964年のアルバムでパッツィ・モンタナのリードギターを演奏した[37]ジェニングスがRCAビクターの広告肖像に登場。1965年

歌手ボビー・ベアは、フェニックス通過中にカーラジオでジェニングスの「Just to Satisfy You」を聞き、最終的にその曲と「Four Strong Winds」をレコーディングした[38]。フェニックスに立ち寄ってJD'sでのジェニングスの公演を目の当たりにした後、彼はナッシュビルにあるRCAビクターのスタジオ責任者チェット・アトキンスに電話をかけ、ジェニングスと契約する必要があることを伝えた[39]


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