1972年にウイングスはシングル「アイルランドに平和を」「メアリーの子羊」「ハイ・ハイ・ハイ」「C・ムーン」を発表した。「アイルランドに平和を」は政治的な内容であるとして、「ハイ・ハイ・ハイ」は薬物を連想させ、性的な内容にも捉えられるとの理由によりラジオ等で放送禁止となったが、それでもチャート上ではヒットした。 1973年になると、新アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の先行シングル「マイ・ラヴ」が大ヒットし[11]、その勢いでアルバムも前作を大きく上回る売上を記録しただけでなく、ウイングスにとってどちらも初の全米1位を記録した。このアルバムは、当初『ラム』制作時に録音された楽曲も収録し、2枚組アルバムとして制作されたものの、前作の売上不振を理由に所属レコード会社キャピトルの反対により1枚にまとめられた[12][注釈 5]。また同様の理由で以後の数枚のシングルやアルバムにおけるアーティスト名は、“ポール・マッカートニー&ウイングス”となっている[13]。映画の主題歌となったシングル「007 死ぬのは奴らだ」[注釈 6]も同様に全米2位に到達するヒットを記録した。 ウイングスとしての活動を軌道に乗せたマッカートニーは英国ツアー
音楽的全盛期:1973年 - 1976年
1974年、マッカートニーは公演活動の再開を思案する。新たなメンバーを必要としたマッカートニーは選考を行い、最終的にギター担当の元ストーン・ザ・クロウズのジミー・マカロック、ドラマーとしてジェフ・ブリトンを採用した[注釈 9]。この2人を加えた新たな編成により、テネシー州ナッシュビルやロンドンなどで録音を行い、シングル「ジュニアズ・ファーム」を発表した。1975年1月にはルイジアナ州ニューオーリンズに渡って本格的なアルバムの制作に取り掛かる。しかしその矢先にブリトンが脱退[注釈 10]。代わってジョー・イングリッシュがドラマーとして加入し、完成したアルバムは『ヴィーナス・アンド・マース』として同年5月に発売された。このアルバムは、前作の成功が追い風となり、アメリカでは発売前の予約枚数だけで200万枚に達する高い売上を記録し、先行シングル「あの娘におせっかい」とともに全米1位を達成した。ジミー・マカロック(左)とポール・マッカートニー(1976年)デニー・レイン(1976年)
『ヴィーナス・アンド・マース』には、ポール以外のメンバーがリード・ヴォーカルをとる楽曲が2曲収録されている。その一つ「メディシン・ジャー」はジミー・マカロック自身による作曲であったが、こういった楽曲を収録する背景には、「あくまでポール・マッカートニーのバックバンドにすぎない」という世間のウイングスに対する一般的なイメージを払拭したいとする彼の狙いがあった。なお、アーティスト名もこのアルバムからウイングス名義に戻っている。
1975年9月より、ウイングスは12ヶ国で64回公演の大規模なツアーを開始する。その最中に制作されたのが、1976年に発売された『スピード・オブ・サウンド』である。