1875年、25歳の若さでマギル大学の生理学の教授に就任。1878年、モントリオール総合病院の医師に就任。1882年、カナダ王立協会に設立メンバーとして参加。1884年、ペンシルベニア大学の教授に就任。1888年にジョンズ・ホプキンズ大学の教授、翌1889年にはジョンズ・ホプキンズ病院の初代内科部長を拝命。1898年王立協会フェロー選出。1905年、オックスフォード大学の欽定教授に就任。1911年、準男爵に叙任。1917年、一人息子のリビアが西部戦線で戦死[2]。1919年、胸膜炎から発した肺膿瘍のため死亡。
マギル大学図書館のオスラー医学歴史図書館にその名を残している。同図書館は、カナダで最も大きな医学歴史の図書館であり、世界で最も広い図書館の一つである。
死後の1926年には、ハーヴェイ・ウィリアムス・クッシングの記した『医学者 ウイリアム・オスラーの伝記』がピューリッツァー賞を受賞した。 1874年、血小板の形態と機能を初めて記載した。それまでは、血小板は白血球または赤血球の前駆体と考えられていた[3]。 肺炎や急性骨髄炎へのカッピング療法使用を推奨した[4]。
業績
出典^ 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ), ブリタニカ国際大百科事典. “オスラーとは? 意味や使い方
^ “ ⇒Untitled Document”. hippo.med.hirosaki-u.ac.jp. 2023年10月13日閲覧。
^ 米野琢哉・長澤俊郎『血小板生物学』メディカルレビュー社、2004、37頁。
^ Lilly, Evelyn; Kundu, Roopal V. (2012-04). “Dermatoses secondary to Asian cultural practices: Dermatoses secondary to Asian cultural practices” (英語). International Journal of Dermatology 51 (4): 372?382. doi:10.1111/j.1365-4632.2011.05170.x. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1365-4632.2011.05170.x.
関連項目
日野原重明 - 「65 27歳の決意 92歳の情熱」P85において日野原が影響を受けた医師にオスラーを挙げている上に、「十歳のきみへ - 九十五歳の私から」ではオスラーの言葉を引用している。
感染性心内膜炎 - 症状の一つであるオスラー結節は彼に因む
オスラー・ウェーバー・ランデュ病
外部リンク
オスラー ウイリアム:作家別作品リスト - 青空文庫
⇒Celebrating the Contributions of William Osler
⇒The American Osler Society
⇒The William Osler Photo Collection(McGill University)
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