現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。
国際連合ウィーン事務局 (UNOV)
国際原子力機関 (IAEA)
国際連合工業開発機関 (UNIDO)
包括的核実験禁止条約機構準備委員会 (CTBTO)
国連薬物犯罪事務所 (UNODC)
石油輸出国機構 (OPEC)
欧州安全保障協力機構 (OSCE)
国際新聞編集者協会 (IPI)
国際ドナウ河保護委員会 (ICPDR)
2017年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界14位と評価された[5]。ヨーロッパの都市ではロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリン、フランクフルトに次ぐ6位。 古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。 中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。1241年、ワールシュタットの戦いやモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。 ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院
歴史詳細は「ウィーンの歴史」を参照
ローマ時代
ハプスブルク家の帝都1683年のウィーン18世紀のウィーンシェーンブルン宮殿1900年ウィーン国立歌劇場
19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。
帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。