ウィーン国立歌劇場
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これは当初は聴衆の不評を買ったものの、後継者らはこの改革をそのまま続けた。『フィデリオ』のフィナーレでの舞台転換の時間をかせぐために、「レオノーレ序曲第3番」を挿入するアイデアもマーラーによるものである。

また、マーラーはそれまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場でヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ『こうもり』を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(『灰かぶり姫』というシンデレラ物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった[9]

20世紀になると、総監督リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』(1916年10月4日)や『影のない女』(1919年10月10日)の世界初演が行われている。第二次世界大戦中の1945年3月12日、連合軍の爆撃により舞台が破壊され、建物は火災に見舞われた。火災は2日2晩続いた[10]。モーリツ・フォン・シュヴァイエのフレスコ画のあるホワイエと正面階段、連廊、それに喫茶室は焼失を免れたが、120作のオペラ上演のための舞台装置と大小道具のほぼ全て、15万着もの衣装が失われた。このため国立歌劇場はウィーン・フォルクスオーパー(1945年5月1日から6月14日まで)およびアン・デア・ウィーン劇場(1945年6月18日から1955年8月31日まで)を仮の拠点とした。また、従来ウィーンの上演と連携したプロダクションを上演していたザルツブルク音楽祭は、これにより独自のプロダクションを作るようになった。

再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任したカール・ベームの指揮による『フィデリオ』によって1955年11月5日に再開した。

ウィーン国立歌劇場はイタリアやその他の外国語作品も、契約歌手によりドイツ語で上演してきたが、カラヤンは客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。これは、やはり訳詞上演が慣例化していたドイツその他の国の大歌劇場にも波及した。

歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級によるオーパンバル(オペラ座舞踏会)にも使用されている。
総監督

ヨハン・ヘルベック (1870?1875)

ヴィルヘルム・ヤーン (1881?1897)

グスタフ・マーラー (1897?1907)

フェリックス・ワインガルトナー (1908?1911)

フランツ・シャルク (1918?1919)

リヒャルト・シュトラウス / フランツ・シャルク (1919?1924)

フランツ・シャルク (1924?1929)

クレメンス・クラウス (1929?1934)

フェリックス・ワインガルトナー (1935?1936)

カール・ベーム (1943?1945)

カール・ベーム (1954?1956)

ヘルベルト・フォン・カラヤン (1956?1964)

ロリン・マゼール (1982?1984)

音楽監督(楽長)フィリップ・ジョルダン (2015年)

ハンス・リヒター(1893-1900)/総監督はヴィルヘルム・ヤーン

フランツ・シャルク(1900-1918)/総監督はグスタフ・マーラー

ブルーノ・ワルター(1901-1913)/総監督はグスタフ・マーラー


クラウディオ・アバド (1986?1991)/総監督はクラウス・ヘルムート・ドレーゼ(英語版)

小澤征爾 (2002?2010)/総監督はイオアン・ホレンダー(英語版)

フランツ・ウェルザー=メスト (2010-2014)[11]/総監督はドミニク・メイエ(独語版)

フィリップ・ジョルダン (2020-)/総監督はボグダン・ロシュチッチ(独語版)

友の会

オペラチケットの販売だけでは赤字なので[12]、会費または寄付の額により75のメセナ会員、130のスポンサー会員、119の後援会員、その他の一般会員からなる「友の会」があり、会員になるとプレミアゲネプロ鑑賞6回、オペラサロントークショー16回、入場券の優先販売、世界各地の歌劇場訪問旅行、年報発行配布の特典がある。これら会員の会費、寄付によって赤字圧縮につとめている[13]
関連項目

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 - 世界随一の実績と知名度を誇る名門楽団。


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