楽器は、楽友協会保管の楽器が貸与される。コンサートマスターには、オーストリア銀行提供のストラディバリウスの「シャコンヌ」が貸与される[6]。運営には専門事務職員もいるが、チケット販売、コンサートやツアーの企画、スケジュール、指揮者の選定、人事、コンサート記録の保管、予算管理、ポスターやグッズ販売を団員が主体的に自主運営している[7]。 ウィーン・フィルハーモニー協会は自主運営団体であるが、そのメンバーはウィーン・フィルの基盤となるウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員としての活動が義務付けられている。 1973年以降は、オーディションに合格した後、まず国立歌劇場の団員として3年の試用期間を経て(その間ウィーン・フィルの演奏にも待機団員として加わる)、正式にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員として採用される。 1973年以前は、国立歌劇場管弦楽団の定員よりウィーン・フィルハーモニーの定員のほうが少なく、国立歌劇場管弦楽団入団と同時(ヴィリー・ボスコフスキー、ゲルハルト・ヘッツェル、ライナー・キュッヒル等がその例である)あるいは短期間の後にフィルハーモニー協会に入会を認められた奏者もいる一方で、退職者が出てフィルハーモニーの定員が空くまで数年間待ってようやく入会を認められる奏者もいた(現行と同様、未入会期間中もウィーン・フィルの演奏に待機団員として加わっていた)。特に、国立歌劇場総監督であったヘルベルト・フォン・カラヤンによって国立歌劇場管弦楽団の定員が増員された1964年以降に入団した奏者は、フィルハーモニーの定員に変化がなかったこともあり、フィルハーモニー協会への入会を認められるまで長期間を要する者も多く、規定が変更されて1973年3月1日付で入会を認められるまで8年間かかった奏者もいた。 ウィーン・フィルのメンバーとして25年間活動を続けた奏者は、楽団からウィーン・フィルハーモニー名誉リングを授与される。 65歳定年後は準団員となりオペラやウイーン・フィルの海外公演や定期公演のような忙しい時、ウイーン国立歌劇場管弦楽団、ウイーン・フィルのエキストラとして演奏する[8]。 採用されるのは主にウィーン国立音楽大学の出身者で、先輩団員から直接指導を受けている(多くの団員は演奏活動のかたわらウィーン国立音楽大学で教鞭をとっている)。また、採用される前からエキストラとしてウィーン・フィルの演奏に参加している者が半数以上いる。ウィーン国立音楽大学出身者でなくとも、ゲルハルト・ヘッツェルのように、第1コンサートマスターであったヴォルフガング・シュナイダーハンに直接師事した直弟子で、名誉指揮者のベームの推挙によってコンサートマスターに採用されたものもいる。 1990年代まではオーストリア(ドイツ)人または旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性にほぼ限定されており、女性団体などから社会的に批判されることもしばしばだった。しかし、1997年に女性ハープ奏者アンナ・レルケス
オーケストラのメンバー
歴史
ウィーン・フィルハーモニーの誕生オットー・ニコライワインガルトナー指揮によるリハーサルの様子。フェルディナント・シュムツァーによるエングレービング (1926)
帝国王立宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のオーケストラとして、1842年3月28日にレドゥーテンザールにて行われた「大コンサート」もってウィーン・フィルの誕生とする。帝国王立宮廷歌劇場の楽長で作曲家でもあったオットー・ニコライが指揮した。
1847年にニコライがウィーンを去ってしばらく活動は停滞したが、1860年にカール・エッケルトが宮廷歌劇場の監督に就任し、1860年1月15日にケルントナートーア劇場にて定期演奏会を指揮し、以来現在まで演奏会が継続している。1870年には楽友協会大ホールが完成し、1870/1871年のシーズンから本拠地となった。1875年から1882年にかけて、ウィーン・フィルのホルン奏者の出身である高名な指揮者ハンス・リヒターを定期演奏会の指揮者(首席指揮者)として迎え、リヒターを中心とした家長的な温かい雰囲気の中でオーケストラは大きな発展を遂げた(『ウィーン・フィルハーモニーの黄金時代』と呼ばれる)。