ウィンフィールド・スコット
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スコットは、ロバート・E・リー工兵大佐の支援を受けてベラクルスに上陸し、おそらくウィリアム・H・プレスコットの「メキシコ征服の歴史」にヒントを得て、エルナン・コルテス1519年に辿った経路を進みメキシコシティを攻撃した。この時の好敵手はメキシコの大統領で将軍のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナであった。高温、雨、難しい地形といった困難さのなかで、セルロ・ゴードコントレラスチュルブスコおよびモリノ・デル・レイの戦いで勝利し、1847年9月13日チャプルテペク砦を落した後にメキシコシティを降伏させた。チュルブスコの戦いでメキシコ軍聖パトリック大隊の多くの兵士を捕虜にしたスコットは、チャプルテペクの戦いの時に捕虜を一斉に絞首刑に処した。処刑の瞬間はメキシコの砦にアメリカの国旗が掲揚された直後と指定された。このことは多くの戦争法を破った戦争犯罪であり、スコットの経歴の汚点になっている。

スコットはメキシコシティの軍隊指揮官としてメキシコ市民やアメリカ当局から高い評価を受けた。しかし、その虚栄心や肥満が風刺の対象とされ、その後の政治家としての経歴にも付きまとうことになった。スコットは、テイラー将軍と指揮を分かち合っていることについて、陸軍長官のウィリアム・マーシーに手紙で苦情を洩らし、「午後の6時に座って1皿のスープを掻きこんだ」ところから書き上げていた。政敵で当時の大統領ジェームズ・ポークはスコットの評判を落そうとして、直ぐにこの手紙を出版したので、スコットの人生の残りにはこの一文が風刺漫画に描かれたり、民衆の歌になったりした。

もう一つスコットの虚栄心の例がある。スコットは1846年ポール・モーフィーというニューオーリンズの少年にチェスで負けたが、8歳のチェスの天才に負けたことを奥ゆかしく取り扱おうとはしなかった。
政治ウインフィールド・スコットを応援するホィッグ党の風刺画

1852年の大統領選挙において、ホィッグ党は現職で、米墨戦争の英雄ザカリー・テイラーの死によって大統領に昇格していたミラード・フィルモアを候補に指名しなかった。前回に続いて選挙に勝つためにホィッグ党はフィルモアに代えてスコットを指名し、民主党のフランクリン・ピアースと対決させた。スコットが奴隷制反対論者であったことで南部の支持を減らし、ホィッグ党は奴隷制を支持していたので北部の支持者を減らした。敵のピアースは米墨戦争の古参兵でもあった。この結果、スコットは選挙人を4つの州でしか獲得できず、ピアースが大勝して大統領に選ばれた。

選挙では躓いたものの、スコットは依然広く人気のある国民的英雄であった。1855年、議会の特別立法でスコットは名誉中将の位を与えられ、アメリカの歴史でジョージ・ワシントンに次いで2人目の中将となった。

1859年、スコットは太平洋岸北西部に行き、サンフアン島の領有問題でイギリスとの紛争解決にあたった。この紛争は軍隊が動員されピッグ戦争と呼ばれた。老獪な将軍はイギリスとの関係を改善し、平和的な解決に導くことができた。
南北戦争スコットのアナコンダ作戦を風刺する漫画詳細は「北軍による海上封鎖」を参照

スコットは、南北戦争の初期に陸軍総司令官であったが、年齢も行っていたこともあり、実戦の指揮は取れなかったので、ロバート・E・リー大佐に北軍の指揮を委ねた。しかし、1861年4月にバージニア州が合衆国から脱退し、リーは辞職してワシントンD.C.の守備軍の指揮をアービン・マクドウェル少将に渡した。

スコットは北軍が素早く勝利を挙げられるとは思っていなかったので、南軍の重要な拠点を取って勝利に導く長期の計画を立てた。ミシシッピ川大西洋岸およびメキシコ湾の主要な港を抑え、続いてアトランタに侵攻するというものだった。このアナコンダ計画(英語版)は新聞で冷ややかに取り扱われた。しかし、その全体の概要を北軍が戦略として使用し、特に西部戦線において南軍の港の封鎖に成功した。1864年ユリシーズ・グラント将軍がその計画を続行し、ウィリアム・シャーマン将軍がアトランタ方面作戦とその後の海への進軍によって実行した。

当初は合衆国海軍があまりにも弱体だったせいもあり(開戦時に合衆国海軍が保有していた蒸気船はわずか3隻程度だったと言われる)アナコンダ計画は大した効果を挙げなかったが合衆国海軍が強化されるにつれその有効性も大いに向上し、終戦時には海に出た南部の船の実に3隻に1隻が拿捕・もしくは撃沈されるほど効果的な港湾封鎖を行うようになっていた。また1862年に合衆国海軍はデヴィッド・グラスゴー・ファラガット提督の指揮下アナコンダ計画の一環として立案されたニューオーリンズ占領作戦を見事に成功させ、南部最大の港湾都市を南部連合から奪い取っている。

スコットは肉体的に前線に立つことができなかったので、その計画も実践できなかった。その結果として、新しい野戦司令官ジョージ・マクレラン少将が段々と反抗的な態度を示すようになっても叱責することができないと感じた。マクレランの議会上下院の支持者からの政治的な圧力もあり、スコットは1861年11月1日に辞任した。マクレランが陸軍総司令官を継いだ。

スコットは南北戦争の北軍勝利を見届け、1866年ニューヨーク州ウェスト・ポイントで死んだ。遺体はウェスト・ポイント墓地に埋葬された。
遺産

スコットは、第3代のトーマス・ジェファーソンから第16代のエイブラハム・リンカーンまで14代の大統領に仕え、将軍になってからも13代47年間であった。スコットに関する文献はミシガン大学のウィリアム・L・クレメンツ図書館にある。[2]

アイオワ州スコット郡は、スコットがブラック・ホーク戦争を終わらせる平和条約の調印を取り仕切ったので、スコットの栄誉を称えて名づけられた。ミネソタ州テネシー州のスコット郡およびテネシー州ウィンフィールド市もスコットに因んでいる。カンザス州スコット郡の元の陸軍駐屯地スコット砦や、ウエストバージニア州のスコット・デポおよびウインフィールドの各町もスコットに因んでいる。アイオワ州マハスカ郡のスコット町は、元はジャクソンと呼ばれていたが、1952年の大統領選挙でスコットを強く支持したので、住民が町名の変更を請願して変えられた。[3]さらにアイオワ州セロ・ゴルド郡とブエナ・ビスタ郡はスコットが指揮して勝利に導いた戦いの名前を採った。ジョージア州サチェスに近いウィンフィールド・スコット湖はジョージア州で最も高度の高い湖である。外輪式蒸気船ウィンフィールド・スコットは1850年に進水した。「Great Scott」(まさか!/なんてこった!)はウィンフィールド・スコットの部下が言い始めた可能性がある。[4]
脚注^ Waugh, John, The Class of 1846: From West Point to Appomattox: Stonewall Jackson, George McClellan, and Their Brothers, Ballantine Books, 1999, ISBN 0-345-43403-X.
^William L. Clements Library.
^History of Scott Township
^World Wide Words website

参考文献

Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001,
ISBN 0-8047-3641-3.

John Eisenhower|Eisenhower, John S.D., Agent of Destiny: The Life and Times of General Winfield Scott, University of Oklahoma Press, 1999, ISBN 0-8061-3128-4.

Elliott, Charles Winslow, ⇒Winfield Scott: The Soldier and the Man, 1937.

Johnson, Timothy D., "Winfield Scott: The Quest for Military Glory, University Press of Kansas, 1998, ISBN 0-7006-0914-8.

Peskin, Allan, Winfield Scott and the Profession of Arms, 2003.

外部リンク

Origin of the phrase Great Scott!.


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