ウィンズケール原子炉火災事故
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ウィグナーエネルギー

原子炉が建設された頃の英国は、アメリカやソ連とは異なり、黒鉛が中性子にさらされた場合にどのように振る舞うかについてほとんど知見を有していなかった。ハンガリー系アメリカ人の物理学者ユージン・ウィグナーは、黒鉛は中性子照射を受けると結晶構造が変化し、ポテンシャルエネルギーを蓄積することを発見した。このエネルギーは、蓄積が進むと強力な熱として急激に放出されることがある。操業認可が下りて運用が始まると、ウィンズケール原子炉2号基に不可解な炉心温度上昇が生じた。これはウィグナーエネルギーの急激な放出に起因するものだった。英国の科学者達がこの現象における危険性を懸念し、蓄積されたウィグナーエネルギーを安全に解放するための手段が求められていた。唯一の有効な解決策は焼きなまし工程の追加で、黒鉛の炉心は核燃料で250°Cに加熱され、炭素原子が結晶構造の所定の位置に戻って、蓄えられたエネルギーを徐々に熱として解放し、そして炉心全体に均一に広がることになった[14]。焼きなましによりウィグナーエネルギーの蓄積を防ぐことには成功したが、監視装置も原子炉そのものも冷却システムなども含めたすべての周辺装置も、焼きなまし工程のためには設計されていなかった。

事故の時には、広く考えられていたように黒鉛減速材にではなく、ウラン燃料に火がついた。 2005年の調査により、黒鉛の損傷は燃えた燃料棒の周囲に留まっていたことが示された[15]。この原子炉の金属ウラン燃料は、現代の原子炉で使用される二酸化ウランとは異なり、酸素の存在下で簡単に燃える性質があった。冷却空気を直接、大気中に排気することは、炉心から放出された放射性物質がフィルターを通過すれば環境中に放出されることを意味した。
火災事故
用途の変更

英国が米国と核兵器相互開発合意の二国間条約の交渉を進めるためには、技術的に互角であることを証明しなければならなかった。ウィンズケールの施設は、英国最初の原子爆弾用プルトニウムの生産を目指して建てられた。原子爆弾の開発には成功したが、その後米国は三重水素を使ったテラー・ウラム型の水爆を設計し、爆破実験を行った。英国は三重水素を生産するための施設を保有していなかったため、ウィンズケール原子炉を転用する決定がなされた。三重水素は原子炉の内でリチウム6中性子放射を当てることで生産できる[注釈 1]。プルトニウムを生産するよりも高い中性子束が必要なので、アルミニウム製の燃料カートリッジについている、ウランが発火するのを防ぐための放熱フィンを切り詰め、アルミニウムで中性子が吸収される割合を減らすことが決定された。ウィンズケールの施設を最初の設計のままで想定限界を超えて使用することで、安全性は下がるものの低いコストで三重水素が製造できるはずだった。1号炉で最初の三重水素の生産に成功した後の段階では、熱の問題は無視できると推定され、本格的な生産が始まったが、設計仕様を超えた原子炉の温度上昇により、科学者たちは炉心の熱の正規分布を変え[訳注 4]それにより1号炉で熱が集中する"ホットスポット"が生じた。これらの熱の急上昇が科学者達に気づかれなかったのは、熱電対は元の設計に基づいて炉心の熱分布の温度の測定に使用されており、炉心の最も熱い部分を測定するようにはなっていなかったので、それが誤った楽観的な見方につながった。
発火

1957年10月7日、運転員達は焼きなまし工程を開始するために、ウィンズケール原子炉1号基の冷却ファンを低風力に切り替え、原子炉を低出力で安定化させた。次の日、焼きなましを行うために、運転員達は原子炉の出力を増加させた。焼きなまし工程がうまく行われていたように見えたので、原子炉を停止するために制御棒が炉心に降ろされたが、ウィグナーエネルギーの解放は炉心に均一には広がっておらず、蓄積が残っていて不十分なことがすぐに明らかになった。そこで、運転員は制御棒を再び抜き、2度めの加熱を行って焼きなまし工程を完了させようとした。熱電対は炉心の最高温の位置にはなかったため、運転員達は炉心の一部が他よりもかなり熱くなっていることに気づかなかった。このことが、2度めの加熱が火災を決定づけた要因の背後にあった疑いが持たれているが、正確な原因は今も不明である。公式の報告書はウランのカートリッジが破裂して酸化したことが一層の過熱と火災の原因になったと示唆しているが、より最近の報告書では、マグネシウム-リチウム同位体カートリッジの方かもしれないと示唆している。機器を観察してわかることの全ては穏やかな温度上昇があったことで、それはウィグナー効果により発生すると予想される範囲内のものだった。

10月10日の早朝、何か異常なことが起きていると疑われた。炉心の温度はウィグナー効果による熱放出が終了することにより徐々に低下するはずであったが、監視装置は不明瞭な表示をし、熱電対の一つは炉心の温度があべこべに上昇していることを示していた。原子炉が冷却するのを促進するために、空気の風量が増やされた。これは炎により多くの酸素を供給することになり、放射性物質を煙突の上に押し上げ、フィルタの回廊に入り込んだ。その時になって制御室の運転員達は煙突最上部の排気部分に取り付けられた放射線の状況を測定するモニタ装置の針が振り切れていることを知った。指針に書かれた通りに、現場監督は施設が緊急事態であると宣言をした。
炎上

運転員達は遠隔監視装置で原子炉を調べようと試みたが、それは障害により動かなかった。所長のトム・ヒューズは、独自の判断で原子炉を調べようと提案し、彼と他の運転員は防護服に身を包んで、原子炉の燃料供給面側に向かった。高温を記録している熱電対の近くの燃料チャンネル検査用のプラグが何らかのミスで取り外されていたと分かったのは、運転員達が赤熱した燃料を見た時だった。

「検査用のプラグのひとつが取り外されていたんだ」とトム・ヒューズは後のインタビューで語った。「そして我々はチャンネル4本分の燃料棒が赤熱して明るく光りだしている本当に恐ろしい光景を見た。」

原子炉が火災を起こしていることに疑いの余地はなく、そして約48時間が経過していた。副所長のトム・トゥーイ[16]は完全装備の放射線防護服と呼吸用のボンベを身につけ、原子炉後部の燃料取出側を調べるために高さ80フィートの原子炉建屋の屋上に階段で登り、原子炉の蓋の上に立った。ここでトゥーイは点検用のハッチから、鈍く赤い光が、原子炉の背面と炉心シュラウドの間の空間を照らしているのを見たと報告した。 赤熱した燃料カートリッジは、燃料取出側の燃料チャンネルの中で強い光を放っていた。トゥーイは事故の間中、燃料取出側からの荒れ狂う猛火が届く炉心シュラウド上部の鉄筋コンクリート製の建屋の上に何度も戻り、そこで指揮を執った。コンクリートは600℃を超えると崩壊する恐れがあったが、トゥーイは危険を冒して職務を遂行した[17][18]
初期消火の試み

運転員達は火災にどう対処すべきか確信を持てなかった。まず、彼らは空冷用のファンを最大出力にして冷却効果を増加させることにより炎を吹き消すことを試みたが、これは逆に炎をあおった。トム・ヒューズと彼の同僚は、すでに激しい炎の出ている周囲から無傷の燃料カートリッジを取り出して延焼を防ごうとしていた。トム・トゥーイは炎の中心部の溶融したカートリッジの一部を足場用のパイプで突いて、炉の後ろの燃料冷却プールに落そうと提案した。しかしいくら押しても燃料棒は動こうとせず、この方法では不可能だとわかった。パイプを抜くと先端は軒並み赤熱しており、さらに、抜いたパイプのうちの一本は赤熱した先端から溶融した金属がしたたり落ちていた。ヒューズには、これは中性子照射を受けたウランが溶けた物に違いなく、それは重大な放射線の影響が燃料供給側の作業用エレベーターにまで及ぶと解っていた[訳注 5]

「熱に曝された燃料チャンネルは白熱していた」とヒューズと一緒にエレベーターで作業していた同僚は言った。「それはまさに白熱していたんだ。誰も、文字通り、誰も、一体どれだけ高温になってしまうのか想像もできなかった。」
二酸化炭素

次に、運転員達は二酸化炭素を使用しての消火を試みた。同じ敷地にある新しくできたガス冷却炉のコールダーホール原子力発電所に25トンの液体二酸化炭素がちょうど納品された所で、それをウィンズケール原子炉1号基の燃料供給側に取り付けたが、火を消すのに役立つほどの量ではなかった。火はあまりに熱かったので二酸化炭素を使用すれば酸素を剥ぎ取る可能性もあった。

ヒューズは後に詳しく語っている。「それで我々はこれを取りつけたんだ。我々にはこの貧弱な二酸化炭素のホースしかなく、私にはこれで消火できるとは全く思えなかった。」
注水

10月11日金曜日の朝、火災は最悪の状態にあり、11トンのウランは光り輝いていた。温度は極端に高くなっており(1つの熱電対は1300℃を記録した)、損傷を負った原子炉周囲の炉心シュラウドは崩壊という深刻な危機に陥った。この危機に直面して、運転員達はついに水を使用することを決めた。水をかけると、溶融した酸化金属が水と接触し、水の分子から酸素を剥ぎ取って遊離した水素が残り、送風された空気と混合して水素爆発を起こし、熱で弱くなっている炉心シュラウドを破裂させる危険があった。 しかし他に選択肢がなかったために、運転員はあえて計画を進めることにした。 約12本の消火ホースが原子炉の燃料供給側まで引き回され、足場のパイプに掛けられた。ノズルの先端を切断し、火災の中心部より約1m上の燃料チャンネルに挿しこんで水を注ぎ込んだ[注釈 2]。トゥーイは再び原子炉建屋の屋上に駆け上がって放水を指示し、水圧を増やすにつれ水素が反応する兆候を示さないか点検用のハッチの所で注意深く音を聞いた。しかしながら注水だけでは消火に失敗し、更なる措置を取ることが必要になった。

そこで、トム・トゥーイは自分と消防隊長を除いて原子炉建屋の外に出るように命じ、原子炉を冷却していた送風ファンを止めた。トゥーイはその後何度も屋上まで登り下りし、燃料取出側から立ち上る炎が次第に消えていくのを報告した。 火を観察している間に、彼は燃料取出側を見やすくするために留め金を外していた点検用のハッチが、吸い込まれて早く閉まることに気付いた。これは炎があらゆる所から空気を吸い込もうとしていたためだと彼は報告している。炎は燃焼を続けるために煙突からも空気を吸い込もうとしていたに違いないと彼はインタビューで述べた。

ついに彼は点検用のハッチを開けて、火が次第に消えかけているところを確認することができた。「最初は炎上していたが、炎が減少し、赤い光は消え始めた」と彼は説明し「私は鎮火したことに納得がいくまで何度も建屋の屋上に登って確認した。私は確かに燃料回収側に立っていたんだ。まあ、たぶん」続けて彼は言った「停止した原子炉の炉心をまともに目視すれば、相当の放射線を受けただろう。」

原子炉が完全に冷温になるまで、さらに24時間の放水が続けられた。

1号炉は事故以来、封印されたままで、依然として約15トンのウラン燃料が残っている。残った燃料を取り出そうとすると、放水の時に生成された自然発火性物質の水素化ウランの存在ゆえに再燃する可能性もあると考えられていた[19]。その後の廃炉プロセスの一環として実施された調査では、この可能性は無いとしている[15]


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