ウィンストン・チャーチル
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1951年10月28日 - 1952年3月1日[7]
イギリス
植民地大臣
1921年2月14日 - 1922年10月19日[6]
イギリス
陸軍大臣
1919年1月10日 - 1921年2月13日[3]
イギリス
航空大臣
1919年1月10日 - 1921年2月13日[3]
イギリス
軍需大臣
1917年7月17日 - 1919年1月10日[2]
イギリス
ランカスター公領大臣
1915年5月28日 - 1915年11月11日[8]
イギリス
通商大臣
1908年4月12日 - 1910年2月14日[6]
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1953年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:歴史や伝記の記述の熟達に加え、高揚した人間の価値についての雄弁な庇護者であること

サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA英語: Sir Winston Leonard Spencer Churchill、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリス政治家陸軍軍人作家
概説

サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属し、第二次キューバ戦争を観戦し、イギリス領インド帝国パシュトゥーン人反乱鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選(当時:25歳)。しかしジョゼフ・チェンバレン保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍した。ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。アスキス内閣では通商大臣内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良政策に尽力、この体験を通じて暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めた。

ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領イラクパレスチナ政策、ユダヤ人パレスチナ移民を推し進めた。初の労働党政権となったマクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、野党に下落した保守党へ復党した。スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカ日本の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗し、政権交代が起き再びマクドナルドの労働党政権の復帰となった。

1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党ヒトラー独裁政権への宥和政策に反対した。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年の勝利達成まで戦争を主導した。西方電撃戦ギリシャ・イタリア戦争北アフリカ戦線ドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためヨシフ・スターリンソ連と協力し、またルーズベルト大統領のアメリカとも同盟関係となった。

しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港シンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍敗退による相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。

1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、同年7月の総選挙でアトリー政権が成立し保守党は惨敗した。


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