ウィリアム3世_(イングランド王)
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その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで合流し、フランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させた。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となる。

戦争はスペイン領ネーデルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦った。コンデとリュクサンブールとの戦いではしばしば敗北を重ねたり(スネッフの戦いカッセルの戦いサン=ドニの戦い)、ネーデルラントの都市を奪われたりしているが、戦略上他国と結んだオランダが有利であり、1678年に締結されたナイメーヘンの和約でオランダは領土を保全、ウィレム3世は一躍プロテスタントの英雄となった。

フランスと組んで戦ったイングランドは海軍提督ミヒール・デ・ロイテルの活躍でオランダ上陸を阻止、1674年にイングランドと和睦して第三次英蘭戦争を終わらせ、1677年に駐蘭大使となっていたテンプルとチャールズ2世の側近のダンビー伯トマス・オズボーンの周旋で、ロンドンでチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの娘メアリーと結婚した。ジェームズは母方の叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは似合いの夫婦ではなかった。夫婦仲は良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり(後にオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトンと結婚)、同性愛的傾向もあったが、メアリーに敬意を払うことだけは忘れなかった。

戦後、ルイ14世が領土拡大を狙い、ナイメーヘンの和約で獲得した領土に付随すると過去の書類に記録された領土を併合する動きに出ると、迎撃に出ようとしたが諸国の出だしが遅れ、アムステルダムの出兵反対にも遭ったため、1681年から1684年にかけてルクセンブルクストラスブールなどライン川沿岸の領土をフランスに占領されてしまい、反省からアムステルダムをはじめ国内の宥和に努めた。一方、イングランドが王位継承問題で揺れるとイングランドの一部の政治家がオランダを訪問するようになり、イングランドとの関わりが深まっていった。

1685年にチャールズ2世が亡くなりヨーク公ジェームズが即位すると、チャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットがイングランドで挙兵したが、短期間でジェームズ2世に鎮圧された(モンマスの反乱)。ウィレム3世は王位継承問題で亡命していた従兄のモンマス公をしばしば歓待していたが、反乱に際してはジェームズ2世に援軍を送っている[4]
イングランド王即位

1686年、ルイ14世が再び欧州侵略の野望を強めると、ウィレム3世はオーストリアやスペイン、スウェーデンなどとアウクスブルク同盟を結成してフランスに対する対抗姿勢を強め、1688年にルイ14世がドイツのプファルツ侵略を開始すると大同盟戦争が勃発した。同年、イングランド議会の要請を受け、ウィレム3世はフランス軍がオランダへの即時攻撃がないことを確かめると、同盟国から派兵された軍をヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒに率いさせてオランダの守備を任せ、残りのオランダ軍を率いてイングランドに上陸、叔父かつ義父のジェームズ2世をフランスに追放した。イギリスでは1人の死者も出すことなく体制変革に成功したため、名誉革命と呼ばれている。

翌1689年2月にウィレム3世はウィリアム3世として国王に即位し、女王となった妻メアリー2世と共にイングランドの共同統治者となった。当初、イングランド議会の意向はメアリーの単独統治であり、ウィレム3世は女王の夫(王配)としてのみ遇されるはずであった。しかしウィレム3世はそれに反発し、オランダ軍の撤収もほのめかしながら、チャールズ1世の女系の孫である自らも王位に就くことを望み、メアリーも同調したため、イングランドはウィリアム3世とメアリー2世を同格の君主として戴くことになった。ここにおいて、それまで3度の英蘭戦争を戦ってきた両国は同君連合に近い形となった(厳密には、オランダ総督は元首ではあっても君主とはいえない)。

ウィリアム3世の治世中、イングランド軍の司令官にオランダ人が任命されたり、オランダ人やフランス人が恩賞を与えられたりイングランド貴族に叙任されることもあった(ポートランド伯爵ウィリアム・ベンティンク、ションバーグ公爵フレデリック・ションバーグ、アスローン伯爵ゴダード・ドゥ・ギンケル、ゴールウェイ伯爵ヘンリー・デ・マシュー、アルベマール伯爵アーノルド・ヴァン・ケッペルヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルクなど)。また、即位時に議会が提出した権利章典によって君主の権力が議会に制限されたとはいえ、議会召集と解散、軍事権は未だ国王が所持していて、ウィリアム3世は議会と提携しながら大同盟戦争を遂行することになる。オランダでは腹心のアントン・ヘインシウスがホラント州法律顧問に選ばれ、不在のウィリアム3世に代わってオランダを取り仕切るようになる。

スコットランドにも革命の影響が及び、1689年3月にスコットランド貴族が議会を招集、4月にウィリアム3世とメアリー2世が国王と宣言された。不満分子でジェームズ2世支持者(ジャコバイト)のダンディー子爵ジョン・グラハムハイランド地方で起こした反乱も7月に鎮圧されたが、1692年にウィリアム3世がハイランド地方の氏族に忠誠を誓うよう命じたところ、スコットランド国務大臣のステア伯ジョン・ダルリンプルがウィリアム3世の命令を取り付け期限に遅れたマクドナルド氏族を虐殺した(グレンコーの虐殺)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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