ウィリアム2世_(イングランド王)
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セシル・ド・ノルマンディー

尼僧となった。


アガサ・ド・ノルマンディー

カスティーリャ王アルフォンソ6世と婚約していたものの、結婚前に亡くなった。


コンスタンス・ド・ノルマンディー

ブルターニュアラン4世と結婚[6]

当時の記録によると、早死したリシャールを除く3人の兄弟の関係は張り詰めていたと伝わっている。ウィリアム2世と同年代の年代記編者オルデリク・ヴィタリス(英語版)の文献には1077年-78年にノルマンディー・レーグルで発生したいざこざについての記載が残されている。ある日、サイコロ遊びに飽きたウィリアムとヘンリーは、兄ロベールに対してイタズラを仕掛けた。その悪戯というのは、上階から尿壺をひっくり返し、階下のロベールに上から内容物をぶちまけるというものだった。辱めを受けたロベールは立腹し、彼ら兄弟は乱闘を繰り広げた。この乱闘はなかなかに激しいものであったため父親のウィリアム征服王が仲裁に入らなければならない程であったという[7][注釈 1]

歴史家マームズベリのウィリアムは12世紀に記した彼の歴史書の中でウィリアム赤顔王について以下のように言及している。

『彼はがっしりとした体つきをしていた。顔は明るく赤みを帯び、髪の毛は黄色で、爽やかな顔つきをしており、目の色は左右で異なってある種の煌めく斑点があり、驚くべきほどの体力を有していた。身長はそこまで高いという訳ではないが、お腹はかなり出ていた[8]。』
イングランドとフランスウィリアム2世の大印章

ウィリアム征服王は自身の2人の息子にノルマンディー公国・イングランド王国を分割して相続させたが、この分割相続によりノルマンディー・イングランド双方に領土を持つ貴族達はジレンマを抱えることとなった。ウィリアム2世とロベール短袴公との仲は険悪であったので両者に媚び諂うのは危険極まりなく、下手を打てば片方の君主から、最悪の場合は両方の君主から寵愛を失うというリスクを抱えるハメに陥ったのだった[9]。そんな諸侯たちは、この危うい状態を打破する唯一の方法はイングランドとノルマンディーを再び1人の君主のもとに再統合することだと認識し、1088年、ウィリアム征服王の異父兄弟で当時の有力者であったオド・ド・バイユー(英語版)の指揮のもとで、彼らはロベール短袴公に与してウィリアム赤顔王に対する反乱を決行(英語版)した[10]。しかしロベール短袴公はノルマンディー公国からイングランド王国へ攻め入り反乱軍を集結させる機会を逃し、結局反乱は失敗に終わった。ウィリアム王は諸侯に銀を配布し今後の善政を約束することで彼らを味方につけ、反乱軍を鎮圧した上に国王としての威厳も回復させることに成功した。1091年にはノルマンディー公国に攻め入り、ロベール短袴公の軍勢を撃破して、ロベール公に一部の領土を割譲させた。その後2人の兄弟は和解し、ウィリアムはメーヌ地方をはじめとするフランス王国に奪われていたロベール公の旧領奪還の支援を約束した。この約定は結局破棄されたものの、ウィリアムはその後も生涯を通じて、フランスにおける領地や権益の防衛に勤しんだ。彼はこの際、怒涛の勢いで各地を戦いまわっていたとされ、1099年にメーヌ伯(英語版)エリー1世ル・マンを征服しようとした際の彼の対応はその一例としてよく挙げられている[11]

ウィリアム赤顔王は王国統治を安定させた。ノルマンディー公国での場合と同じように、イングランド王国では司教や修道院長は封建的責務を通じて王と強く結びつき、ノルマンディーの伝統に基づく国王による叙任行為は当然の行為として認められていた。当時のヨーロッパでは叙任権闘争が繰り広げられており、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は闘争の末に一時破門宣告を受けたほどであったが、イングランドでは大して問題視されなかったのだ。また当時の国王の個人的権力は大法官庁(英語版)を通じて地方レベルにまで浸透していたといい、これは当時のフランス地方では類を見ない構造となっていた。国王の統治と法律により王国は統合され、教皇の非難を比較的受けにくくなった。そして1097年には 「王国の威厳と権威を諸侯に示し付けるため」 にウエストミンスター宮殿を建造した[12]
信仰王冠を被ったウィリアム赤顔王が描かれた銀貨(1089年)
ヨークシャー博物館(英語版)展示

1089年、ウィリアム王がイングランド王に即位してからまだ2年と経たない頃、父の顧問であり親友でもあったイタリア・ノルマン系聖職者のカンタベリー大司教ランフランクスが亡くなった。ランフランクス大司教の死後、ウィリアム王は新たなカンタベリー大司教の任命を数年に渡り実施せず、司教座の収益を国庫として横領していた。1093年、ウィリアム王は酷い病気に羅漢し精神状態が悪化し、ノルマン系イタリア人聖職者のアンセルムスをカンタベリー大司教に任命した。アンセルムスは、当時最も偉大な聖職者として知られていたという。しかしこの任命により教会と王国との対立を生むこととなった。アンセルムスはランフランクスに比べ、グレゴリウス改革を強く支援する聖職者の1人であったからだ。ウィリアム王とアンセルムスは教会関係の多くの事項において対立し、ウィリアム王はアンセルムス大司教について以下のように述べたという。

『Yesterday I hated him with great hatred, today I hate him with yet greater hatred and he can be certain that tomorrow and thereafter I shall hate him continually with ever fiercer and more bitter hatred [13].』

他のイングランド人聖職者は、ウィリアム王に対してこれまでの自分たちの立場の昇進や生活において恩義を感じていたため、アンセルムスを公然と擁護することができなかった。1095年、ウィリアム王はロッキングハム(英語版)で議会を開催し、アンセルムスを王権のもとに従属させようと試みた。しかしアンセルムスは最後まで自身の立場を崩さず王と対立し続けた。1097年10月、ついにアンセルムスは亡命し、教皇の支援を得るためローマへ向かった。当時のローマ教皇ウルバヌス2世は外交的に優れた教皇であり、ちょうどこの頃、対立教皇クレメンス3世を支援する神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と叙任権をめぐり争っていた。そんなウルバヌス2世は新たな敵を作るのを躊躇い、ウィリアム王とコンコルダートを締結したとされる。この協約をもとに、ウィリアム王はウルバヌス2世を正式な教皇であると認め、またウルバヌス自身もウィリアム王のイングランド王国における教会政策を承認したのだった。その後もウィリアム王は、アンセルムス不在の中、彼の治世中カンタベリー大司教座からの歳入を国庫に編入し続けたという[14]

この紛争はウィリアム王による失政とは見做されておらず、その後しばしば発生する国王と教会との対立事件の兆候のひとつとみなされている[注釈 2] 。( 主な対立事件として、ヘンリー2世の治世におけるトマス・ベケット暗殺事件や、ヘンリー8世の治世におけるイングランド国教会設立などが挙げられる。)もちろん、聖職者たちは自らこのような政治的問題に介入することはなかった。文献によると、先のランフランクス大司教がウィリアム征服王に対して、彼に対する反乱に参加したオド司教(英語版)を処罰するよう提案した際、ウィリアム征服王は『なんだと?!彼は聖職者だぞ!』と声を荒げ、それに対しランフランクスは『殿下はオド司教を処罰するのではありません。ケント伯を処罰するのです。』と返答したと伝わっている[16]。( オドはバイユー司教のみならず、ケント伯の爵位も有していた。)

上述の政策によりウィリアム王は当代の人々から不平不満を論われているものの、彼はバーモンドジー修道院(英語版)の創設に尽力して荘園を寄進すらしているという記録も残っていることから、このような記録はウィリアム王の個人的信条を示す証拠として妥当なものであるとみなされている。
戦役と反乱

1086年に父親ウィリアム1世によって編纂された土地台帳ドゥームズデイ・ブックに記載されているアングロ・ノルマン人の入植地を継承した。このドゥームズデイ・ブックは主に徴税体制を整えるためにウィリアム1世の指導のもとで編纂された台帳であり、イングランド統治の模範例とされている。そしてウィリアム赤顔王は非常に強引にノルマン諸侯らの領地を併合していった。1095年には、ウィリアム王が開催した王の御前会議への出席を拒んだノーサンブリア伯ロベール・ド・モンブレー(英語版)を討伐し、領土と爵位を剥奪し収監した。またウィリアム王に対する謀反の疑いをもたれていたウー伯ギヨーム2世に対しても、失明させた上に去勢を施すという厳罰を施したとされる[17]


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